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シンギュラリタリアン宣言

 遅ればせながら、ブログのタイトルを変えました。もちろん共産党宣言のオマージュです。この宣言という言葉は、マニフェストの訳語ですが、マニフェストには幽霊や無意識の内容がヌーっと現れる・顕現する・浮かび上がるというような意味もあるそうです。だから、「ヨーロッパにゲシュペンストが徘徊している。共産主義というゲシュペンストが。」というわけか・・・。

 それはそうと、いいもの見つけました。シンギュラリティの何たるかを代弁しているようなものです。元はここ

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ひぐらしの『対象a』と「書かれざる法」

 まさか、『ひぐらしのく頃に解』の新エンディングの『対象a』の歌詞と、『アンティゴネ』の関係にネットの誰も気付いていないなんて・・・・・・ことはないよね。興味のある人のために、そもそも「対象α」という概念ががラカンの思索の中で「アンティゴネ」と関連して育てられた、重要な手がかりであったことを指摘しておこう。説明はグーグル先生お願いします。しかし、こういう指摘を、インテリのオタクは何で、ちゃんとやらないのか・・・。

 そもそも、「あなたの亡骸に 土をかける/それが禁じられていたとしても/純粋なまなざしの 快楽には/隠し切れない誘惑があった」という歌詞を聴いて、『アンティゴネ』だと分らないのはいくらなんでも、ダメだろう。それとも、そんな当たり前のことをことさら言い立てるのは、「スマートじゃないね、フフン。」ということなんだろうか?あと、このタイトルの読みが「タイショウエー」てことは、むだにひねってるんじゃなきゃないだろう。やっぱり、対象α(アルファ)でしょう。なら、失われたものの歌であり、失われた幼年期の歌でしょう。

 それはさておき、全般的に『ひぐらし』は移行対象をめぐる物語としてのパターンをしっかり踏まえてる。だからこそ、血まみれの物語であり、失われた面影の物語であるわけで。この歌は『アンティゴネ』の形式借りて、「あなた」への愛を歌っている。なので、オイディプスの母子相姦から産まれたアンティゴネの、兄ポリュネイケスへの「兄弟愛以上のもの」が歌われていることになる。そこで思うに、まさか、このエンディング、さとこぅのテーマソングではあるまいね。だとすると、「あなた」はにぃにぃということに・・・・・・。

 まあ、それは冗談だけど、歌詞のかかり受けとしては、「どうして罪があるのだろう」は前の文章と脈絡なく歌われているのではなく、「どうして愛する人を埋葬するのに、罪があるのだろう?」という意味なのだけれど、それはいわゆる「アンティゴネの問い」というやつで、ラカンなどには「文化や言葉のきまりごとに意味などあるのか?」的な問いとして扱われていたりする。

 しかし、この歌詞の場合、ダブルミーニングが仕掛けられていて、「純粋なまなざしの 快楽には/隠し切れない誘惑があった」とは、普通の人が普通に読む限り、「ピュアなあなたの瞳にみつめられると、わたしがあなたに欲情していることがやましく思えて、恥ずかしくて隠すほかなかったけれど、その誘惑を感じているわたしの態度は隠しても隠し切れなかった。」もしくは「あなたの目には誘ってる節が確かにあったのよ。」としか読めない。でも、タイトルと『アンティゴネ』がこうである以上、この部分はラカンの概念「まなざしの快楽」を同時にいってることは疑いない。

 「まなざしの快楽」はそもそも、見られる快楽ではなく、何かを見ることの快楽でもなく、見ること自体の快楽を指す。それは、夢を見ることの喜びのようなもので、何かを得ることの快楽ではなく、求める間の快楽という意味に近い。だから、もし「まなざしの快楽」がラカンの意味なら、純粋なのは「あなたのまなざし」ではなく「わたしの快楽」であって、「あなた」のまなざしをいっているのではない。しかし、一方の意味を選択すれば、りかちゃまよろしく、「あなたのまなざし」は消え去り「白すぎる骨」になってしまうだろう。

  そして、本編で死体が埋められるのはあの美人局コンビだけで、まさかそれが「あなた」と歌われているはずもない(だったらアホだ)。だから、『アンティゴネ』が念頭にないと、『ひぐらし』からの連想で出てくる「どうして殺人に罪があるのだろう?」といったニュアンスはナンセンスで、ありうる罪は二つ、「禁じられた埋葬」のの可能性と「禁じられた関係」の可能性で、前者が歌詞の中で背景化していることを鑑みると後者の「禁じられた関係」の罪と罰のことを言っている可能性が高い。かつ、よく言われることにアンティゴネが王国の法を破る根拠とした「書かれざる法」という概念は、近親相姦を肯定する「太古の法」(バハオーフェン『母権論』なら非成文法)を指しているとも言うから、ますますエロし(でも、必ずしも「良いこと」ではない)。

 というわけで、知的にこの歌を批判する場合は、これくらいの背景は押えていないとあらぬ方向を非難することになるので、気をつけないといけない。「対象α」の概念を理解しても、この歌詞がその概念を沿って作られているわけではない(インテリぽく演出するダシにされてるだけな)ので、違うじゃんというのは、なしでしょう。対象αなのは、むしろ鬼殺し編の詩音にとっての「オヤシロ=悟史」や、レナのゴミの山、プレイヤーにとっての『ひぐらし』の正解なのであって、その意味で『ひぐらし』にピッタリのEDなんじゃないかなと思う(尤も、これだけ抽象度の高いキーワードなら、どんな物語でも該当するかもしれないが)。

 この歌詞も『アンティゴネ』も既に被埋葬者が死んでいるところから始まっている。対象αに関する語りも、既に対象が失われているところからしか、語り得ない。そして、『ひぐらし』もまた、賽殺し編の犠牲者がすでに死んでいるところから始まっている。そして、それは、名前を失ったものが、物語の外部で、既に死んでしまったものである神の目線を通して辛うじて夢見ることが出来たというものでしかない。そして、対象αもまた、名づけられ=選ばれることで見失われた多くの可能性の痕跡であって、そのことに鋭敏であるものだけが、それに近づくと(ラカンが)いうのは、まったく竜騎士07にも当てはまるのかなと、感心してしまう。それにしても、久しぶりに対象αの話をしたそばから、なんたる偶然・・・・・・。て、また、歌詞のダブルミーニングによる、多世界表現かよ!といまさら(ry

追記:CDの『対象a」は作詞者の発音から「たいしょうアー」と読むようです。また、ラカンの「対象a」の語も最近はアルファという読みではなく、アーと読むのが一般的のようですね。

対象 a Music 対象 a

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アンティゴネーの主張―問い直される親族関係 アンティゴネーの主張―問い直される親族関係

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精神分析の倫理 上 精神分析の倫理 上

著者:ジャック・ラカン,ジャック・アラン・ミレール
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Book 古代世界の女性支配に関する研究 その宗教的および法的本質

著者:ヨハン・ヤーコブ バッハオーフェン
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ロボティクス爆発の準備をしよう.2

 引いてしまって、誰もつっこみを入れてくれない小説のほうにも書いてるんだけれどもシンギュラリティに向かっていくプロセスはイノベーションの収穫加速で、そのためには、まず、イノベーションの蓄積が必要だ。イノベーションの蓄積にはイノベーションの持続可能性が重要で、主にそれは経済性を意味している。そもそも、カーツワイルのシンギュラリティー到来の根拠が、イノベーションの収穫逓増=蓄積なのだから、話は別にシンギュラリティー到来を前提としないのだ。

 ロボット社会がテクノロジー的に可能になりつつあることは、前回述べた。私は、ユビキタス・コンピューティング社会が、昔、見えないPC社会と読まれたように、見えないロボット社会=ユビキタス・ロボティクス社会が遠からず到来すると考えている。その根拠は、前回述べた理由からだけではない。むしろ、ロボティクスの製造エネルギーコスト・運送コスト・資源コストの変化の予想に基づいている。

 私は、カーツワイルのいうように、そろそろ科学技術進歩のアクセラレーションが起こるならば、ユビキタス・コンピューティングという中核を除けば、まずエネルギーと物流の領域で起こると予測している。イノベーションは、無論経済の牽引力だ。その力は、コストパフォーマンスに跳ね返り、市場に絶えざる競争と粛々たるチープ革命を招聘する。そして、当然蓄積されるのはイノベーションの情報だけではなく、生産設備も損耗はあれど蓄積され増加していき、いずれロボットの鼠算状態を迎えることになる。

 それは、電気料金無料化と運送コスト無料化という形で予兆が現れるとだろう。これは別に荒唐無稽なことではない。それには根拠がある。まず、電気料金無料化についてだ。

 そもそも、家庭用太陽電池というものは、本来、家庭で消費されるはずの発電所からの電力を消費せず、家庭用に電気を起して使用して電力全体の総生産量を増加させるものだ。しかも、買電でかかったはずの費用の総計が、時に設備投資の額を補償し、時には売電により設備投資を超え、収益にさえなるという非常に経済的なイノベーションだ。ただでさえ設備量分だけ発電量が増加するという特性があるというのに、最近はさらに巨大な変化の時を迎えつつある。それは、発電効率と製造コストの改善、ならびに電力価格上昇により、設備投資より発電による利益が上回ったということだ。さらに、去年から今年にかけて、シャープなどの王手の太陽電池パネルメーカーが生産規模拡大を表明し、軒並みこれから生産量を3倍にするというのだ。これに従って、パネル価格は徐々にであれ(原料価格の上昇のため)、さらに下がるだろう。そして、電力価格の高まりが、かえって太陽電池の普及と進化を後押しするだろう。

 ここまでは、情報さえあれば常識の範囲内だろう。脱化石燃料・脱原発化が進展して、収支ゼロならば、電力価格が無料化したことにはならない。社会全体の総発電量を増加させるには、波力発電、潮力発電、地熱発電など巨大な可能性はある。しかし、目下、発展目覚しいのは、風力発電だ。既に、アメリカの風力発電会社から供給される電力価格は、火力などのエネルギー発生に原料を要する電気より、割安だ。しかも、最近、発電用風車の最王手三菱重工はその生産量をこれまた三倍にすると発表している。

 この流れに、電力コストパフォーマンスに優れた機械との置き換えが加わり、更に、今まさに電池の性能と生産量とコストパフォーマンスの改善が自動車産業を中心に沸き起ころうとしている。こうした、蓄積に次ぐ蓄積のコンビネーションこそ、収穫加速の法則の本質なのだが、高性能(低価格)電池の出現は、こうしたイノベーションを繋ぎ、家庭・公的機関・企業を問わず、発電者間の余剰電力の交換を可能にする。すると、ここでインターネット接続料金に起こったことと同じ現象が起こるのが見越せるのではなかろうか?定額で、使い放題という、あの信じがたかった現象が。

 インフラ設置の費用を含めた電力価格が充分に安くなれば、電線の維持コスト以外、電力会社にはかからなくなる。その状況が、新規参入と競争を招いて、その結果、電力会社は通信業界が電話からインターネットの移行の際に役割を変えたように、個々の電気取引を媒介する中立なメディアへと役割を変化させることになるのではあるまいか?

 自家発電の普及率と電力会社の変化に伴って、個々の家庭の電力料金は電力輸送のため電線使用料だけを支払って、あとは電力の過不足分を自動的に補正して最適な利益調整をしてくれる家庭用高容量電池に接続したサービスあるいは、組み込みシステムの維持費用あるいは加入コストだけで、電気料金は実質無料ということになるのではないか?およそ、発電設備か、家庭用電池(電気自動車でもよい)を持っている限り、だいたい現在の月額料金の3分の1以下の料金で(孤島や特別に大量の電力を消費する場合はプレミアム料金になるにせよ)、今よりも多くの電気を利用できるようになるだろう。

 電気料金無料化と同時平行して、運送コスト無料化が起こるだろう。まあ、電力価格が無料化して、車が全部電気自動車になれば、そうなるだろうということは容易に察せられることと思う。しかし、運送コスト無料化というのは、それだけをいっているのではない。運送には、ロジスティクスに、荷物の積み下ろし、運送車両の運転が必要だ。それには、従来人件費を要した。それらもすべて、タダになるのだ。

 将来自立的に公道を走るロボット自動車がいずれは出現するだろうということについては、あまり疑う人はいないのではないかと思う。ただ、その時期については、相当先のことだと思われているのではないだろうか?しかし、こんな記事もある。すでに、ある程度の走行性能のロボット自動車のシステムは開発されており、その優勝チームは民生機器のみで作られた低コストなシステムを用いていた。それでも、それは2005年の話だ。今年、11月の結果如何では、行き詰まり観のある自動車産業も眼の色を変えるだろう。

 もし、今度のカー・レースで良好な見通しが得られても、自動車産業が着手開始しないとすれば、人工知能研究のコスト障壁(トヨタにはそんなもんないだろ)とか、電気自動車の開発に繋がり得る電源システムが絡んでるから石油業界からのリベートがもらえない(生き残るには優先順位を誤っている)などの不合理な理由があるのかも知れない。けれど、自律運転型自動車(略して自動車)に手を出しづらい最も正当理由は、ロボット自動車が事故を起した場合の損害補償のリスクだろう。しかし、それがあるかぎり永遠にありえないというような性質のものでもない。事故責任の法的リスクも、事故の発生確率次第だろう。前回のカー・レースの優勝チームの指導者はこう述べている。

「自動運転の車を目指せば、自然と安全な車を目指すことになりますよ。私は自動車業界の方と話す際、よく自動運転の車はドライバーに対する究極の補助になると言っています。自動運転と安全性は互いに無関係ではないのです。実際、私が取り組んでいる自動運転の車の技術が、今すぐ市場に受け入れられるとは思っていません。この技術は、ドライバーシステムに次々と組み込まれる形で市場に出て行くことになると思います。システムの能力がどんどん高まっていくうち、ある時、われわれは自動運転できる車を手にしていることに気づくでしょう。」(転載)

 それに、すでに、フォルクスワーゲンやジェネラル・モーターズがロボットカーレース参加大学に協力している。狙いは、まず、将来のロボット自動車市場とみて、間違いないだろう。

 とはいえ、荷物の積み下ろしまで、ロボット化することなどできるのかという疑問もあるかもしれない。現状のロボット技術では、人間と同様の作業効率を実現するロボットはいないし、制作できるかもしれないが、それは高コストすぎるし、そのコスト障壁を克服する見通しは当面立っていないではないか、と。しかし、それについては、もう既に半分は克服されてしまった。ロジスティクス、つまり配送分別に関しては、すでに配送基地に固定されたベルトコンベア=集配ロボットが行っているし、物によってはもうトラックに積載するまでをロボットが行っているのはよく知られている。ロボット研究でよく言われることだが、人間が作業する環境で自由に作業できるロボットの開発には20年くらい時間がかかるかもしれないが、ロボットが自由に作業できる環境にはすぐにできるのだ。たとえば充分に駐車スペースのあるコンビニでは、トラックの中に、あらかじめ荷物をロボットの荷物下ろしに合わせて整理していれておき、店側の引き受けインフラロボットが中身をICタグで確認し、自動的に店内に引き入れ、伝票などはネット上で処理するというくらいのことは、今すぐにでもできる。このインフラが充実すれば、運送トラックの総合的ロボット化やコンビニなど店舗自体のロボット化が徐々に進んでいくだろう。そしておそらく、このロボットトラックには、解体運搬用の継ぎ目はあるが、運転席はない。

 それらのインフラ整備コストは、ロボット製造ロボットである産業用ロボットの絶対数と作業能率との反比例関係にあり、現在その両面での劇的成長局面に差し掛かりつつあることは、前回述べた。テクノロジー的な面での、運送料ゼロ化はどんどんコスト障壁が下がってゆき、再配分=雇用を前提とした経済の競争的環境により、ロボット化による人員削減は進行していくだろう。だから、おそらくロボット社会化は、まず雇用の縮小、終わらないデフレと言う形で認識されると思う。そして、しだいに、旧発展途上国の労働力の安さを、ロボット導入コストが追い越し、世界中で人間の単純労働市場はそのプレミアム価値でしか採算が取れない市場となる日が遠からず訪れるだろう。

 だから、こうした流れを減速させるのは、人間の雇用を確保するための雇用法制だけということになる。しかし、そこで早急にロボット導入に伴う、リストラを禁止すべきだという結論に至るのは待ってほしい。事態は、日本だけで推移してゆくのではなく、世界中で進展していく種類のものだからだ。たしかに、社会保障が充実しない中で、雇用からロボットに疎外されるという事態はあってはならないことだ。すべての人が最低限の文化的生活を営むための収入は必要だ。しかし、それは必ずしも雇用とセットある必要はないし、新規雇用もどんどん創出されるだろうから、急速に雇用全体が縮小するというものでもない。それに、ロボットを導入しても、リストラが出来ずコスト削減が出来なくなれば、日本企業の国際競争力は下がり、かえって倒産による失業を増大させるだろう。むしろ、企業税収を増加・維持させて社会保障を充実させるという選択のほうが安全だし、持続可能性がある。だから、おそらく将来も今までどおり、そういう判断がなされていくだろうし、そういう方向性の考え方を持てなければ、悲劇的な結末を迎えてしまうだろう。

 つぎに、資源コストの問題に入ろう。ロボット生産が爆発し、ロボット自動車やロボットトラックが増え、物流・生産が爆発すれば、もちろん廃棄物排出量の増加と、資源不足を避けることは出来ない。しかし、両者はリサイクル産業の成長にとって、資源として作用する。ロボット原料の不足は、原料価格を高騰させるけれども、リサイクルで回収される資源の市場価格も上昇させる。原料不足は、宇宙観光と月資源採掘が進展するまで、リサイクル範囲と、リサイクル量の増加によってしか下落しないだろう。ただし、炭素繊維素材利用の普及などによって主流原料が推移する場合もまた、価格変化するリスクを抱えていることは警戒を要すると思う。未来の生活インフラとなるロボティクスを発展させるために、これから成長産業となり株価の急上昇が予想されるリサイクル産業の株の保有をしてみるのもいいかもしれない(こんな予測もある)。

 しかし、高ロボット化社会を作り出すだけの、資源量全体の規模の有限性が、先物市場発のコスト高を招き、これらの予測を水泡に帰す、あるいは遠くに延期するだろうという、予測もあるだろう。それについては、カーツワイルは代替素材に関するイノベーションの可能性を挙げているし、別の可能性もあると思う。それは、エフェメラリゼーションだ。

 エフェメラリゼーションは、米国の発明家バックミンスター・フラーの提唱した概念だ。すべてのものの細かな部品を頻繁に交換して、全体としては長持ちさせ、時間が経過すると、まるで性能も外観も異なる物となっていくという自然界によく見られるホメオスタシスとトランジスタシスのシステムは、リソースの量も変化に要するエネルギーも最小にする。「質量・力は知性となる。」という言葉で簡潔に表されるそのプロセスは成長の局面のグラフに極小曲面をもたらす。これは、流通する資源量は減るが、資源の流通する速度はさせることで、需要を補填するシステムだ。

 それは、高度に資源配分速度が速まった社会において、初めて可能となる。だから、ユビキタス・ロボティクス社会は、 ウェブ社会、ユビキタス・コンピューティング社会のあとに来ることになるだろう。そのためには、リサイクル産業の定義を更新し、ロボット修理や部品交換・販売、ロボットのパーツ構成のリデザイニングなどのサポート産業まで範囲を拡大する必要があるだろう。リサイクル産業自身も当然ロボット化が進展し、コスト削減、規模拡大が進むだろう。リサイクル産業の成長は、ロボット産業拡大における、最も重要な前提条件となる。ロボティクスとリサイクルは双子の兄弟となのだと充分認知されることが、リサイクル産業への投機を招き、ロボティクス爆発の基盤整備となるだろう。

 ロボットのエフェメラリゼーションのシステムを生み出し、それを土台にしてロボットのユビキタス化が進めば、高度なロボティクス製品が低コストで生産できるようになり、人間の生の隅々まで、安心安全なロボットのサポートが行き届くようになるだろう。そうすれば、それらの製品のクオリティはどんどん、ナノレベルに至るまでの精密さ、安全性にまで至るようになるだろう。現在のロボットの危なっかしさは、神経命令の行き届かない身体のようなもので、さらに進化が続けば、より人間に近づいていくだろう。徐々にナノエンジニアリングの成長と平行して、サイバネティクス社会に移行していくというプロセスが進展してゆき、正しい制度設計がある限り、人類は生存のための労働から開放=追放され、自由な時間を与え≒課せられるだろう。ここまでの変化はおそらく、2040年に到達する前に起こるだろう。

 最後に、ロボティクス爆発あるいは、シンギュラリティ到来における、最大の障害を述べておく必要があるだろう。つまり、生きるための意欲と方向を、労働という道しるべを人間の大多数が失うという、人類史上初のイヴェントによって、見失ってしまうという事態だ。

 この事態は、次のようなプロセスで、収拾されていくことになるだろう。この目標喪失という事態は、それ自体が資源と化す。新たな目標へのオリエンテーションを導くというサーヴィス自体が、次なるボランティア的労働となるだろう。その中でも、緩やかな競争が起こり、分化・統合が進展していくだろう。それは、コンテンツ産業=教育産業=宗教が主導し、その中心的メディアは現在を含め、当面ネットだが、それは、商業サイトよりも、むしろ個人サイトやブログが中心的に活用され、現在もしばしば指摘されるように閉鎖的SNSネットワークが教団的機能を果たすだろう。そして、それは宗教・哲学の代替物ではなく、その現在形なのだ。ゲーム・マンガ・アニメ・小説・ドラマ・映画・テレビ番組などのコンテンツ産業を、軽く扱ってきた人は、酷いしっぺ返しを受けることにならざるを得ないだろう。

 これらのコンテンツをとおして、オリエンテーションされる移行する次なるステップはおそらく動物福祉や、生物福祉、そして歴史をさかのぼって、過去の人間の人生の功績を再評価するなり、報いるなりという、人類の過去への応答可能性の探求が始まり、その果てに、場合によっては「死者」もまた甦るかもしれない。おそらく、2030年くらいから、超越論的(この場合現在の人類には机上の空論でしかないようなというほどの意味。)応答可能性は一般人の倫理にも今と異なる形で自覚されるようになるだろう。その、範囲は、無限なのだ。まだまだ、人類の目標資源は尽きないだろう。だから、人類の目標を喪失させ、やる気をなくさせ、堕落させ、機械による人間支配を招くという批判は、単に自己成就的な、つまり自分で火をつけて「ほらみろ、災いは起こったじゃないか!」という程度の災禍に過ぎず、重大で、根本的な問題ではあるが、アポリア(解決不能問題)ではない。

 むしろ、ロボティクス爆発によって到来する、無限に可能性が開かれた社会で何が出来るかについて考えていくべきだと思う。私自身は、やりたいことがたくさんあるが、これを読んだ方も、自分に合った、未来の迎え方をどうか考えていただきたいと思います。(未来の可能性については、政治、貨幣、芸術、思想などを絡めて、これから、少しづつ書いていきますね。)

 

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ロボティクス爆発の準備をしよう

 シンギュラリタリアンでなくとも、ウェブ社会到来という「先触れ」によって、今後の社会変化に巨大な変化が起こることはたぶん感じられていると思う。最近の近未来SFでは、サイバースペースの異常進化に対し風景は温存するという描写が多い。『電脳コイル』もそうだし、『まなびストレート』もそうだった(『攻殻機動隊』原作は異なる)。今後、生産力は原料高によって量的限界を迎え、ロボットなどは結局人間のような使途にまで、性能向上もなく、なんとなく現状が継続していくのではないかという予測によるものだと思う。しかし、ロボットの使途は半導体性能のムーアの法則ベースの向上により、費用対効果が倍々に向上し、PC性能はあと数年でテラFROP・コンピューティングの域に達しようとしている。それは、現在の自動車衝突シュミレーションや、地球シュミレーターに準じる性能のCPUが現在のノートPCサイズに縮小されるということを意味しており、それはロボットの制御系の性能が、10万円台で可能になるということでもあるのだ。

 折から、産業用ロボットメイカーの爆発的な業績好調が続いている。安川電機、ファナックいずれも目覚しい業績だ。産業用ロボットとはそもそも、ロボットを作るロボットだ。だから、ロボット製造は、その生産量が、制作力に転化するという性質がある。ロボット生産はこれまで、設計開発のコストが甚大で、自動車以上の高額商品で、かつ、巨大な需要が見込めるときにしか購入することも生産することも出来なかった。まず、設計に必要なコンピューティングのコストパフォーマンスが、次に精密な部品製作・発注のコストがネックだった。しかし、コンピューティングのチープ革命により、ロボットのデザイン設計はその労力からして30年前の何百分の一となり、この傾向は今も継続している。そして、社会全体に存在するロボットの数も指数関数的に増加していることから、部品生産力も増加し、ナノテクノロジーに進展により、かつて人の職人・達人的技法によってしか可能でなかった「アソビ」を必要とする部品生産も、どんどんロボットによって可能になってきた。これは、CPUの処理速度の向上によって、瞬間瞬間の精緻な運動制御が可能になった結果だと言っていいだろう(もちろん最初から工学的設計によって、「アソビ」自体が比較的容易に再現できるようなものであったこともある)。

 ロボットの進化は、実のところコンピューティングのコスト・パフォーマンスと、CPUの電力消費量・性能のサイズ比の限界がすべてだと言っていいと思う。今までは、運動制御のための演算は外部コンピューターに依存しプラグインしなければ出来なかった。しかし、必要な演算性能が小型CPUですべて可能になったことで、ロボットの重量・体積は演算装置の重量・体積から開放された。そして、いま、起こっている真に深刻な事態とは、人間の能力のコモディティー化ではなく、労働力全般における、ロボットと人間の費用対効果の逆転なのである。そして、(万人戦の代理戦争としての)企業間競争が生産の環境として継続する限りは、遠からず(2030年代よりは早いだろう)人類の失職は必然なのである。

 わたしは、これは不可避だと思う。それを避けるためには、ロボット開発を国際的に一国の例外もなく凍結する必要がある。それは、不可能であるばかりか、そのプロセス上で、ロボット開発継続中国と既凍結国との間に深刻な生産力不均衡と圧倒的な貿易摩擦を招き、既凍結国の産業を根こそぎにし、経済的理由による戦争を不可避的に引き起こす愚昧な選択であると思う。もし、かりに、すべての国が同時に停止したとしても、そのような無謀な合意に達するまでの期間(少なくとも一部の国が凍結するという判断に至るよりも確実に遅い)のうちに、人類が失職しているだろう。国益を追求する機関に、論理的にこのような判断を行うこともまた、ありえない。

 なぜなら、問題はロボットによる職の結果的収奪として認識されるのではなく、個人および企業間の生産力(=富や所得ではない)の格差として現在認識されているからだ。貧困なものの貧困を解消するには、持てるものの生産力を当てるしかありえないという現状認識に立ってみれば、国内の貧困を解消するために持てるものの生産力拡大を引き止めるという選択肢はナンセンスだからだ。したがって、この「失業」自体は不可避である。しかし、真に問題なのはロボットが人間の職を奪うことにあるのではなく、生存および文化的生活を送るのに必要な収入を得られぬということであって、それはロボットの生産力が問題なのではなく、収入を得る手段は労働以外ない、労働でなければならぬという先入観こそが問題となっているのである。

 そうした、ロボットの超性能による失業者の対策は、量的・質的次元における人間の労働のロボットによる代替可能化の進展を睨みながら、失業保険の条件付けによる段階的拡張によりベーシック・インカム制度に移行することによって解決せられるべきである。ベーシック・インカムについては財源に関する危惧があるかもしれないが、それはこのロボティクス爆発に進展にあわせて、物流・生産コストの低下に合わせてデフレーションが継続することから、最低生活保障費自体も逓減するということを考慮すべきろう。

 これに関しては、農水産業の生産力は上がらないのだから、コモディティーがこれ以上値下がりすることはないし、あるべきではないし、物価上昇傾向は持続しているではないかという意見もある。しかし、食料生産量は徐々に拡大すればいいのだし、いずれロボット化するだろう。また、物価上昇は短期的には市場動向により生活を圧迫する価格になることはあっても、長期的にはマネーサプライの比率を超えて、価格上昇を引き起こすことは順当な食糧生産と、ハイパーインフレの押さえ込みが継続する限りにおいてありえない。したがって、金融市場の規模は常に、実質経済よりも大きく、かつ、これからさらにこの比率が拡大するであろうことを考えれば、非物質資本経済圏からの恩恵を期待してよいと思う。

 そしてまた、配分者が政府である必要もない。もし、充分な流通性を持った仮想通貨が複数創出されるならば、若干量ずつの仮想通貨支給の複数並立によって、4,5万円規模のベーシック・インカムは2、3年中に実現可能かもしれない。ある意味では、Second Lifeで収益を上げたり、趣味のサイトのアフィリエイト収入で生活している人々は、未来のベーシック・インカム生活者の先駆けなのかもしれない。

 いずれにせよ、こうした経済圏が拡大すればソフトバンク社長孫正義の主張したように、基本的人権としてのネットアクセス権は、10年を待たずに人間必需の権利となるだろう。というのは、インターネット上を飛び交い、取引され、爆発的に創造される貨幣は基本的に、口座残高という名の電子マネーであり、現在、銀行で創造されている大部分の貨幣の価値は、株や先物、為替市場の交換可能性に基づき、かつての金の代わりに相場予測情報自体がその価値を担保する情報本位制貨幣だからだ。企業情報に基づいた電子マネーの主流化すれば、複数通貨併用状態が予想され、貨幣の価値と準備企業の業績などの情報はリアルタイムで変動するため、その信用性を確認する手段がどうしても必要になる。円は、唯一の決済手段の座を退き、単に国内機軸通貨へと移行するであろうことも、ネットアクセス権の深刻化に拍車をかけるだろう。また、単純にネットアクセス機械の価格下落が、生得的ネットアクセス権の経済的な障害を取り除くだろう。

 それから、電子マネーの運営が充分に低コスト化すれば、地方向けの地域(電子)通貨サービスも誕生するだろし、趣味コミュニティなどの局所(LOCAL、地域)通貨などの出現によって、集合的なベーシック・インカムの財源が生まれるだろう。 こうした市民貨幣の増加は独自の価値体系を作り出し、雇用に依存しない生活文化にフィードバックされることと思う。こうした独自収入は、ロボット失業の軽減の役に立つことよりも、精神保健の向上に資することのほうが重要だろう。

 なぜなら、ロボティクス爆発に必要なインフラであるベーシック・インカムの持つ最も大きな可能性は、雇用=労働から社会福祉を切り離し、貨幣のファンタスマゴリー(「こんなに貢いできたのだから、私は彼を愛している。」「高額所得者と結婚するから、負け犬じゃない。」「貧乏人じゃないから、俺は負け組みじゃない。」みたいな幻想)から人間の価値観を引き離す力を持っているということだろう。それは、良くも悪くも文化の急速な変容を招き、「よき人生」の平均イメージを変えることになる。そして、人間の価値=経済格差に自己の感情の安全保障を依存してきたものに、自己の価値すべてが奪われるかのような認識を与えることになるだろう。尤も、そうしたものたちの大部分は、自分がそうして収奪してきたことすら自覚したことがないのではあるが。

 こうした、感情のステークホルダーたちは、ベーシック・インカムもロボティクス爆発も「人類を怠惰にし、醜悪にし、弱体化させ、不道徳にする。」として、愚かにも双方の進展を妨害するだろう。こうした新ラッダイト運動はネオコンと結びついて、格差によって優越感を守ろうとするだろう。その本音は「こんなに私たちは苦労したのに、おまえたちの世代だけ楽に生活させてたまるか!俺たちは資産運用で安心生活して、下流化するお前たちが困窮するのを高みの見物と洒落込もうか。」ということなのだ。そして、そのためにロボットを破壊するロボットを作ろうとするだろう。それは、軍事用ロボットという形で生産されることになるが、それで破壊されるのは失業者の生活と、失業率により治安の悪化した発展途上国の人命なのだ。

 したがって、ロボット性能の向上は、その価格のコモディティー化によって、貧困者に購入可能な高性能ロボットを目指すべきだとおもう。現在のPCが高額でも低額でも利便性にあまり差がないように、金持ちの買えるロボット労働力も貧乏人に買えるロボット労働力もどちらも大きいので、あまり格差がないというロボットのチープ革命を目指すべきなのだ。新しいラッダイトは、レーニン主義のようなもので、悲惨な人生を変化させて地獄にするものだ。それよりも、アナーキズムの名付け親、プルードンが目指したように、生産量のほうを増大させて、消費者天国資本家地獄を作るチープ革命を進展させるべきなのだ。それは、ほとんど「万人が遊んで暮らせる時代の到来」の先駆けで、ありうる娯楽は、想像に余る。

 こうした形で、ロボット社会化が進んでも、困窮することなく順当に豊かになる方法は、模索すればありうる。ベーシック・インカムのような選択肢も考慮に入れなければ、不用意に技術発達の取り締まりという愚策に走りかねない。そうした過ちは、結局は軍需産業を育て、ロボティクス三原則も満たさず、人間を殺し、抑圧し支配しようとするストロングA.I、ロボットを生み出すのだ。丁度、テロとの戦いを宣言して、世界中にテロリズムを蔓延させた猿の愚行と同じだ。そして、そのプロセスによってシンギュラリティーの軟着陸や、その後のセキュリティ問題やポスト・ヒューマンとの関係に影響してくることになるのだ。特に、ゲイツにPC社会到来の前夜に似た空気があると言わしめたロボット産業の未来を議論しておくことは、とてつもなく重いことなのだと感じている。

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ウェブ社会の『老子』

 昔から『老子』が好きで、よく親しんでいたけれども、最近はあまり読まなくなっていた。『ウェブ進化論』やWeb2.0に関するネット上の言及にふれたのちに、再読してみると、ウェブ社会のプリンシプルは、『老子』の思想そのものじゃないかと感じた。

 『老子』というと、古めかしく思う人もあるかもしれないけど、その本質は徹底的に現実に即した鋭利なマキアベリズムで、読むたびに新鮮だ。しかし、その説き始めは「道」の概念からであるので、抽象的な話だと思われがちだけど、実のところ認識と価値の相対性から説き始めて、その後のショックな内容の準備をしているだけなのだ。それが、恐るべき文言「天地は仁ならず。万物を以って芻狗と為す。聖人は仁ならず。百姓(ひゃくせい)を以って芻狗と為す。天と地の間は其れ猶お槖籥(たくやく)のごときか。虚しくして屈(つ)きず。動きて愈々出ず。」続く。

 意味は「世界に優しい意味などない。万物を作り出すだけ作り出して、用が済んだら捨てる。聖人に優しさなどない。すべての人を藁束同然に扱う。世界はふいごのように空っぽだが、いくら動いて、風を吹き出しても風が尽きることがないように終わらない。」といったところで、実はとてつもなくニヒルだ。だから、超越的存在に関する言説に惑わされるのを、『老子』は首尾一貫して拒否する。そして、身体を価値の基準とするのだ。

 そのため、『老子』は超越的判断を含む価値判断を避け、身命の重養を重視する。そこに、マキアベリスティックな平和主義が接続する。清廉な戦争より、小心な平和をより価値あるものとする。だから、『老子』の説く慈悲とは、打算と妥協で出来上がったどろどろの処世術であって、世間的な審美眼には到底耐え難い、汚らわしきものと映るはずだ(そこのあたりが、『老子』好きの人にあまり理解されていない)。

 そのための手段が有名な「上善は水の如し、水は善く万物を利してしかも争わず。衆人の悪む所に処る。」だ。善人にも、悪人にも利益のあるものになり、何人とも争わない、人の厭うことを引き受ける。この文は、Web2.0関係の原則にもしばしば引用されていた。そして、あまり知られていない『老子』の水の比喩にこんな言葉がある。「江海の能く百谷の王たる所以は、その善く下るを以って、故に百谷の王たり。」つまり、支配のための原則として示されているのだ。また、そのために「嗇なるに、しくはなし。」として、少量でも経済的であることがすべての勝利の秘訣となるとする。これらを綜合すると、つまりチープ革命で可能になったロングテールモデルの先駆けであったといえる。『老子』の国家モデルは「自由と経済性を重視することが、国を強くする。」だ。プラットホームを提供して、参加者に開かれてあり、セキュリティや容量を確保し、デバッグの労をとる。それが、システム提供者の原則なら、ほとんど『老子』と差はない。

 そして重要な事は、『老子』はリスクは兆さぬうちに処理し、支配は誰にも知られず行い、コミュニティは自閉させ、民衆が自ずから無欲になるよう気付かれないように操作するべきことと説いているということだ。これは、まさに『老子』の政治思想がウェブ社会における来るべき権力と同じ「環境管理権力」であることを明示している。これは「積極的自由」より「消極的自由」に主眼を置くスタンスだが、過去と現代ではケイパビリティが桁違いであることを差し引いて考える必要がある。

 そのために『老子』は、こうした操作を行う為政者自身に「自己知」と「知識の節制」「感覚の制御」などの訓練の必要を説く。そして、(おそらく瞑想を含む)訓練の果てに、「無物の象」たる「道紀」を知ることを求める。それは、現象のパターン・法則そのものを指す。

 昔、『老子』を読んでいたとき、『老子』の聖人は、『ブギーポップ』のオキシジェン様にそっくりすぎるなと、思っていた。『ジンクスショップ』を読んで、上遠野は『老子』読んでるに違いないと確信した。両者ともに、アナーキーで、否定神学的だ。それは、双方の成立した時代が価値観の相対化の著しい時期で、その環境で生み出された戦略だからなのかもしれない。

 そして、(『老子』とオキシジェン)双方にウェブ社会的な戦略スタイルを見出すことが出来る。梅田氏の言葉を借りると、

第一法則:神の視点からの世界理解

第二法則:ネット上に作った分身がカネを稼いでくれる新しい経済圏

第三法則:(≒無限大)×(≒ゼロ)=Something‘あるいは消えて失われていったはずの価値の集積

という新たな環境に適応するスタイルを持っている。このことは、また後日。

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Book ジンクス・ショップへようこそ―ブギーポップ・スタッカート

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STRANGE AEON

『怪物王女』のOPの冒頭の文字、よくみると「That is not dead which can eternal lie, and with strage eons even death may die. 」て、書いてあった。そうか、クトゥルーだったんだ。それにしても「久遠に臥したるもの死することなく 怪異なる永劫の内には死すら終焉を迎えん」(波津博明訳)や、「そは永久に横たわる死者にあらねど、測り知れざる永劫のもとに死を超ゆるものなり」(大瀧啓裕訳)。いい言葉だなあ。でも、大瀧訳はよく言われるように文意が違う気がするけど、波津博明訳はそのあたり正確だなあ。

 「永遠に尸し得たるものと雖も、死せるには非ず。奇怪なる時代とならば、死すら、また死するであろう。」見たいな感じじゃないかなあと。eons、アイオーン(イオンだけど、イオンじゃなかった!)をどう訳すかが、難しいとかいわれるけど、そろって「永劫」と訳してる。けど、それだと「長い時間の間には、死が死ぬこともある。」みたいな文章になってしまう。アイオーンは「えいごう」だと誤訳に近いけど、「ようごう」だと、名訳かもしれない。「永劫」は、仏教用語で「永いカルパ」(カルパは永いものだけど)を意味するわけで、アイオーンも天文学的単位の区分の時間を意味するから、ニュアンスはあってると思う。カリユガとかプララヤみたいなそういう時期の意味での時間。創世のアイオーン・終末のアイオーンみたいな感じで。だから「世も末になれば、この時代の理が通じないこともある。」という意味に近いんじゃないだろうか。

 それより「lie」のほうが訳しづらい気がする。「横たわる」なんだけど、特に遺体が横たわってる時に使うし、単に寝るときに横になるという意味もある。「永眠」のみたいなものだろうか。「尸(し)す」だと、ぴったりの意味になるけど、あまり一般的な言葉ではない。「death」はたぶん擬人化された死で、そこが伝わりづらいから「死すら終焉を迎えん」になり、意味はあってるけど、「死が死ぬ」という矛盾を含んでいない。キリスト教圏的な言い回しが、多いけれど、それが邪神に対して使われると、独特な雰囲気の言葉になる。非常に涜神的で、かつ秘教的な雰囲気にしようとしているのだけれど、ラブクラフトの原文自体が例によって不自然な感じで、拙くさえある。

 とかそんなことを考えつつ、私の先生にお酒の入った状態で「これ、どう訳しますかねぇ?」と聞いたところ「こんなんじゃない?」とジョークで、訳してもらった。先生は両訳を知らない。「それは、永久に死したるものに非ず。不可思議なエイオーンの元では、死でさえも死にゆくであろう。」 つまり、「dead」が、That~whichで掛かりうけするのは、文章としておかしいので、やっぱ「それは」と訳すべきだということだった。 で、アイオーンはそのままのほうがいいんじゃない?と。

 ラブクラフトの生きていた頃、ラノベのご先祖の一人パルプフィクションのSFも若くて、共産主義国家も生まれたてで、神智学もそう過去のものではなく、全体主義も台頭しつつあり、今しも原爆が生まれようとする頃で、科学自体の根源的未規定性が、かなり前景化していた頃であったのかもしれない。その点では、インターネットの出現で社会インフラの大変革期を向かえ、シンギュラリティが視野に入りだした現代の問題意識と同じだ。現在の不安の種は、「数学的民主主義」(鈴木謙介)や、グレイ・グーかも知れないけれど、科学が不道徳な結果をもたらすことではなく、科学的探究の行き着く先が超越的地獄かもしれないという疑念は、当時は冗談のつもりかもしれないが、有効だと思う。シンギュラリティ後というストレンジ・アイオーンでは死もまた死するものなのかも知れないのだから。

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『悠久の旅人~Dear boy』ダブルミーニングという可能世界

この前カラオケで歌ったら、「FFみたい」といわれた、『悠久の旅人 ~Dear boy』(アニメ・アイマスED)。曲の美しさが最大の魅力だと思うのだけれど、歌詞は主語・述語の関係が非常に定めがたい。しかし、その定めがたさは、何に由来するのだろうか?

この主語は、「わたし」で、もし、アイマスの物語と切り離して独立で解釈すると、訳が分からなくなるので、アイマスのヒロインの誰かなんだろう。そして、「あなた」はこの場合、インベルとかのロボットで、「boy」に対応して、かつ(ジェンダー上の)男性聴者自身にベクトルが向いている。近年の歌の歌詞は、接続詞で終わっても、次の節で別の文に切り替わるという手法が多く、この歌もそれに習っている。少なくとも繋がらない。これも、歌詞がよく分からなくなる原因の一つになっている。

最大の問題は「わたし」と「あなた」の位置関係が分からないということだろう。そのせいで、歌われた思いが、誰の、何に対する、いつの思いか分からなくなる。まず、一番は出会う前のヒロインが、「あなた」への思いを歌った内容になってて、「あなた」は宇宙の果てにいるんだろうということが分かる。「遥か遠い星をつなぎ ねぇ、思いを描くわ 空を見上げて」は地球と外宇宙の星を結ぶの意味と、夜空の星に星座(運命)を見出すの意味を重ねるダブルミーニングになっている。で、成層圏あたりの「瞬く軌道が」(たぶん流星)どちらの視野からも出会いの約束(運命)の「目印」になっているんだろう、と。で、まだ出会わぬ「あなた」を思っている、という意味と、ロボットのキーの何かあれの光をかけているんだろう。1番の「TRUTH」は出会いの運命の意だろう。

問題は二番。「けして二人がほどけぬよう やがて、朽ちた身体を脱ぎ ねぇ、ひとつになるまで」というのは、どっちかが先に死んでか、「空に旅立って」いないということまでは分かるけど、「TRUTH」が何で、「祈り」の祈り手は誰で、何の「祈り」なのかは、両方の場合を検討してみるまで、なんともいえない。(アイドルには、心があるから「ここで生きている」方の存在に該当できるに違いない)

 まずは、インベルが既に宇宙の彼方である場合。すると、インベルは悲しみのない世界を目指して旅立っていき、ここでの2番の「TRUTH」は悲しみのない世界はあるということだということになる。その場合三番の私は「夜空」にいるという表現と矛盾するかもしれない。しかし、夜空が宇宙空間の比喩ならば、問題にならない。それと、1番と3番の最後の節の微妙な違いの説明になる。つまり、3番の「TRUTH」は、「宇宙のどこかに別離した、「あなた」がいて、ただどこにいるか分からないだけ」という意味となりる。ここでの「瞬く軌道は」、流星では宇宙の果てから見えないので、地球か、太陽の軌道ということだろう。特に、地球である場合「わたし」は地球と重なることになる。

 この場合、祈り手は「わたし」となり、ダブルミーニングにより、「あなた」と同じ「悲しみのない世界になりますように」と「あなたと再び出会い、悲しみがなくなりますように」の意となる。祈りがくれる喜びは、「あなたを待つ生きがい」と「この世から悲しみを消す生きがい」の意味になる。「TRUTH信じてて」・・・のあとには、「あなた」に話しかける言葉が続くと思われる。「すぐ見つけられるように 強い光を放とう」は「あなたがいない世界でも、ちゃんと生きているんだよと伝えたい」という意味だろう。1番では光っているのは、いわばわたしの中の「あなた」だが、今度は「わたし」になる。

 つぎは、「ここで生きている」のが、「あなた」である場合。すると、今度は驚くべきことに、すべての文意が非対称に変わってしまう。「わたし」は空の彼方であり、かつ死んでいる可能性が濃厚となる。「いつかあなたの目指した世界は もう悲しみが消えた未来でありますように」は、「死んでしまい、去っていった世界がどうなったか分からないけれども、いつかあなたが夢見て(「わたし」との離別により挫折した)世界は、もうあなたが立ち直って悲しみが消えていますように(ダブルミーニングにより、いつかあなたが目指していたような世界になっていますように)」の意味に変化する。「祈りはわたしに喜びをくれた まだ届かないけれどTRUTH信じてて」は、「祈りはわたしに、あなたがわたしを忘れていない、あなたはまだ生きていると教えてくれた。まだ、(星になったわたしの光が、あなたに)届かないけれど、(いつかあなたにつむいだ思いが届くという)真実を、まだ信じていて・・・(略)」の意に代わる。ここでのTRUTHは「再会」となる。

 従って、今度は(地球の)夜空に輝くのは、星になった「わたし」で、「輝く軌道は」流れ星となり、再会の場所と時を指示する言葉になる。それは、「わたし」が「あなた」の死を望まないとして、降った星が転生して、「あなた」を再び探しにやってきた意にもなる。すると、たとえヒロインとの離別が死ではなくとも、この場合の3番のTRUTHは「めぐり会いの奇跡」となるだろう。

 作中にダブルミーニングが多いことを鑑みると、去っていった者が「わたし」でも「あなた」でも、成り立つような2番以降の歌詞は、この歌最大のダブルミーニングで、かつ、二人は別々の(可能)世界を生きていても、同じ思いを抱いているということの表現であるように考えるのが自然なのかもしれない。この歌の主語のポジションの定めがたさは、ひょっとするとエクリチュールにおける自己と他者のトポスの定めがたさに由来するのかも知れない。

アイドルマスター XENOGLOSSIA
配信元:バンダイチャンネル
提供:@niftyコンテンツ

Music 悠久の旅人~Dear Boy

アーティスト:Snow*
販売元:ランティス
発売日:2007/05/16
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