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地球温暖化のこと

 地球温暖化のことがとても心配です。最近では、北極の氷がICPPの予想より40年も早く融解していることが分ったようです。つまり、北極の氷の温度が予想よりも暖かかったということなのでしょう。

 北極は地球の大気と海水を冷やすという役割を担っている器官です。海水温上昇を緩和する器官が不全化すれば、かなり迅速に海水温に影響を与えるでしょう。

 地球温暖化の話を聞くたびに思うのは、太陽光と地球の間の熱収支の話ばかりで、地球のもつ熱量のほとんどを占める、深部地中の熱放出について言及されているのを聞いたことがないので、まさか考慮すらされていないのではないかと戦々恐々としています。

 そもそも、海水温は海底地下のマグマなどの熱によって大きく左右されるもので、またマグマなどの噴出孔の規模も、海水温によって固まったり解けたりといった影響を受けるわけで、温度上昇も温度低下も加速度的性質を持つだろうということは、普通に考えて予想できるわけです。海水の対流は、基本的に極地方から冷水が流れ落ち、海底火山から湧き上るという流れの力によって起こるものです。極地方の氷温度や、海底温度が上昇すれば数年以内に海流全域で蒸散による熱放出量が増加することでしょう。大気の湿度は上昇し、かつ地球全体で気圧も上昇するでしょう。すると、よく知られているように、台風の増加や、不安定大気といった現象が起こるわけです。

 でも、もっと気になるのは、海水の地球温度恒常性保持機能の一つ、二酸化炭素吸収機能です。もともと、人間の排出する二酸化炭素は海水がほとんどを吸収し、その時間内で吸収し切れなかった量の二酸化炭素が大気中に残存して、通常言われる地球温暖化の原因となります。しかし、大気で保温能力を有する二酸化炭素が、海水に溶けたからといって保温能力をなくすでしょうか?二酸化炭素の飽和状態とは無関係に、溶解分も、海水温上昇という形で、温暖化に影響を及ぼし続けるわけです。最終的に、排出された二酸化炭素が地球温暖化に対し最小力となるのは、メタンハイドレートの形になってからです。

 海中の二酸化炭素は海中のバイオマスの大部分を占める微生物に取り込まれ、屍骸となり、海底に沈滞することで、メタンに変わり、メタンはハイドレート化して海底の冷温部分で保管されます。珊瑚による石灰化や、地上植物によるはセルロース化は地球全体では、二酸化炭素収支のそのごく一部です。しかし、極から産出される0度以下の冷水の海流全域への供給量が減少すれば、メタンの海水への溶融量が増加し海水温の加速度的上昇を招くことになりかねません。しかも、そのメタンと二酸化炭素の濃溶液は地球深部の熱を吸収し続けるわけです。その熱はまた、地球の歴史を通じて蓄積されてきたメタンハイドレートを溶出させるエネルギーになっていくわけです。

 それとは別に、温度が上昇しているのは、大気と海水だけなのかということも心配です。地球の質量の大部分は、大気でも海水でもなくマントルと核です。そこでは、ただでさえとてつもない量の熱が、重力と膨大な量の超臨界状態の水などに封じ込められています。温暖化の本丸は、地球深部にいる。そう考えると、クトゥルフ神話の登場人物になったような気分です。

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電脳コイル』とユビキタス・レムナント時代

 『電脳コイル』の「メガネ」は、端末だ。現在、パソコンはインターネットに接続する端末になりつつあり、ネットワーク・コンピューティングの理念は現実のものになろうとしている。友人に「ここ十年はPCが端末以外のものであったことなんてないぞ。」といわれて、なるほどもうそういう感覚なのかと感心したものだが、最近発表されたAppleのimacには、外見上HD筐体がなくディスプレイとキーボード、マウスしかない。これは、iphoneのデスクトップPC版のようなものといえるかもしれない。「メガネ」は入力インターフェイスをすべて仮想化し、出力インターフェイスのスペースの中にすべて収納したものといえる。これについては、いくらなんでも省スペース的すぎる。したがって、マイクと空間認識センサー、ディスプレー、そして無線通信機能のみに性能をしぼってサイズを節減して、コンピューターとしての性能のほとんどを外部サーバーに置くという手法を用いていることになっているようだ。

 だから、電波受信状況がメガネの重要な使用条件となっているようだ。「メガネ」は完全映像再現型のディスプレーで、半透過型ではないようで、電源を切ると前が見えなくなってしまう。だから、リアルタイムで周囲の状況のデータをサーバーに送信し、サーバーで処理したデータをリアルタイムでフィードバックするという作業を非常な高速で行っていることになる。多分普段から電源を入れているだけで、ものすごいパケット量に違いない。小学生にそれが使えているという事は、パケット代無料くらいの凄い情報通信環境になっているのだろう。

 問題は、サーバーのデータ容量とデータ形式で、どうやらサーバー内部の情報がサーバ自身に管理されていない領域がかなりの範囲で存在しているらしいことは表現の端々から見て取れる。また、個人のデータ自体が個人のPCの中にではなく、インターネット・サービス・プロバイダーのサーバーの中に保存されているようだ。それは丁度、Google Docs & Spreadsheetsのようなものだろう。だから、「メガネ」の中に情報が保存されていなくても、サーバーとのアクセスが確保されてさえいれば、「いつでもどこでも」利用できるになっているのだろう。そして、サービスを組み合わせて「メガネ」ごとのデスクトップを形成しているのだとすれば、個人の所有する容量は高度に仮想化あるいは、無料化しているのかもしれない。そのため、所有のグレー化してる「スペース」にイリーガルやバグが生じ、メタバグが生成するのだろう。また、保存データが高度に分散しているならば、アクセス暗号の占める重要性は現在の比ではないだろう。すくなくとも、「カンナの日記」では、「メガネ」のIPアドレス?を以って初めてアクセス可能となるデータがあったように見えた(いきはよいよい/かえりはこわい)。

 そういったデータの散在という情報環境(現在もPCの中では、そう変わらないが)から、『電脳コイル』の世界(もっといえば、未来の世界)情報がどこにどう存在するかということにより、固有の性質を持つようになっている。だからこそ、コピーやプログラミング不能なメタバグのような存在がうまれる。現在もアプリケーションが古過ぎて、そのまま実行できないプログラムは多いが、そうした時間差が「無限コピー可能な」情報に固有性を持たせる。

 このあいだ、ショックを受けたことの一つに、情報はいくらでもコピーできると年上の人々の多くが当たり前のことと思っていたことだ。情報のコピーは有限だ。まず容量。次にコピー速度。次に必要性によって、情報のコピー回数は有限なものとなる。たとえば、ウィンドウズが地球上の人が必要であったとしても、人数以上はコピーの必要がない。新しく利用者が誕生したとしても、その子が利用し始めるまで必要はなく、しかも使う頃には次のバージョンが登場し、必要がなくなっているだろう。これは、HDのクラッシュなどによる再インストールに関しても同じで、いくら数があるといってもHD数にも限界がある。

 ある電脳ペットが「死んで」しまったとしよう。おそらく、電脳ペットにもアプリ部分とカスタム情報部分があるだろう。そして、消えて問題になるのは(相当古いデータでない限り)当然カスタムデータ部分に決まっている。カスタムデータが選択肢にして、数十数百ならば、記憶から再現性があるかもしれない。しかし、選択肢数が数千というれべるならば、新たに入力し直すということはほとんど無理だろう。そのデータが、録画情報など外部情報ならば、機械的バックアップなしには当然再現性はない。

 そのカスタムデータのバックアップがあって、すぐ再インストールして復帰したとしよう。そして、情報内容は以前と何も変わらないならば、それは「死んだ」どころか「消えた」ことにすら全くならない。しかし、最終バックアップ以後の情報は「消えて」しまったとしよう。それは人間ならば怪我やアルツハイマーのようなもので、そのデータの固有性は失われていない。もし、大規模にカスタムデータが失われたならば、それは人間なら植物状態から脳死状態のようなもので、定義は微妙だ。しかし、すべてのカスタムデータが失われたならば、「死んで」しまったというべきだろう。もはや、そのデータには再現性がない。そして、その再現性のなさが、人間の生の一回性を通して死の尊厳の形成に関与する。その点では電脳ペットの死についても尊厳は存する。だから、その行為は、データの固有性を通して、人間記憶の尊厳を嘲っている行為なのだ。

 しかしそれは、全く理解されていなかった。このことは、非常にショックだった。分散したコンピューティング環境にあっては、このような再現不能な情報は現在よりもさらに増加するだろう。現在進行形で考えるならば、ブロガーの死んでしまったブログを考えてみるといいかもしれない。生前はブロガーの息遣いを伝えるものであったブログは、死後には生きていた証となる。そして、遺品以上に生々しい死者のメモワールでありながら、あたかもそれ自体が亡霊のようにブロガーの死後も存在し続ける。もし、こうした「死者のブログ」のバックアップが取れなければ、それを消された遺族はどう思うだろうか?これはまさしく、死者がもう一度殺害されるものだ。電脳ペットの死はまだ死んだことのない死者が死ぬことだといいうるかもしれない。それは、生者の死と区別できない。

 そして、『電脳コイル』の情報はユーザ・インターフェイス=アイコン=象徴的には遍在している。古いデータは定義を失い新しい空間に向けて遊離していく。そして、この世に死んだもののいない土地がないように、死者の痕跡に満たされていく。こうして、「遍在する」聖霊のように宇宙を情報が満たしていき、かつて存在すると「信じられ」ていた「霊界(アストラル・プラン)」はハッカー倫理に溶け込んだ「カバラの奥義サイバネティクス」を通してセマンティック・ウェブ、セマンティック・サイバーワールド、メタバースとして「現実化」してゆく。もはや、霊界は信じられたり、感じられたりすることなく、単なる現実として影響力を及ぼし続ける実在となる。それが、好意に満ちていようと、悪意に満ちていようと。

 多くの伝奇の物語の起源がそうであるように、私たちの科学=技術は死者の時間と生者の時間のあいだを揺るがし、死者と生者を見分けるすべも分らないまま、世界は死者の時間で満たされていくことになるだろう。 それは、地上が楽園になるのに似ている。通例、楽園は死後のもので、地上は楽園たりえなかった。まさしくそれこそ動物化にちがいない。スーパーフラットなパラダイムは、パラダイスの門番ケルビムの「紊乱」に起因するからだ。

 「高度に発達した科学は魔法と区別が出来ない」この現在、分散コンピューティングはiphoneという魔法の水晶球を実現し、そこから将来は魔法の水晶で出来た「メガネ」が生まれ来るだろう。『電脳コイル』は伝奇を読む感性で、サイバーSFが読まれることが可能であるという現在の特殊な状況によって、まだ生まれていない死者である子供たちを描き出している。「楽園は、まだ、ない」(『南海奇皇』)。しかし、すでに私たちは、『電脳コイル』の「メガネ」を通して、すでにそんな世界を体験している。『電脳コイル』は未来の・まだ生まれていない子供の・亡霊の物語で、ヤサコたちの視線は亡霊の背後の過去を見つめている。その視線が、もしもさらにその向こうにまで延びているのならば、ひょっとすると私たちの視線と合うこともあるかもしれない。しかし、いったいその「時」はいつ、ということができるのだろうか?レテ川は上に向かって流れている。亡霊の水力発電コイルによって、仮想世界は発電され続けている。「明日」はどこにあるのだろう?

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殻の中の直霊

 またまた、どうでもいいことかもしれないけれど、『攻殻機動隊 THE GHOST IN THE SHELL』の攻殻って、折口信夫の「恋」の語の起源は、死者の霊を呼び戻そうとする「魂乞い」から来ていて、「乞い」と、屍骸あるいは魂の抜け殻である「貝」も語源を同じくするという起源論に基づいているのだろうと思う。

 さらに「乞う」を「攻」とかけ、「殻」は「貝」「からだ」と同じ語源とする折口の説から、空疎になった身体が魂を呼び戻そうとする=ゴーストを恋い求めるとかけ、空疎な義体にゴースト=霊魂が宿る物語であるということと、身体に空疎さを感じている素子と身体から遊離したゴーストだけの存在である人形使いの恋の話であるということを同時に言い表している。

 そのことは、士郎正宗が『攻殻』の第一作である、『仙術超攻殻ORION』で、言葉のマルチミーニングで、意味の多重化、密教化を行った古神道の手法を独自のやり方で踏襲した、その手つきから、出口王仁三郎ばりの掛詞の知識があることは充分窺えるので、同じようなやり方で民俗学を展開した折口に触れていても不思議ではないからだ。

 もし、この「攻殻」のダブルミーニングが偶然にすぎず、深い意味がないにしてもそれは面白いことで、そんな奇跡はないなら、やはり、折口・出口の影響は指摘されるべきだろう。あと、出口は民俗学の手法を相当ぱくってるよねぇ。

 余談だけど、草薙素子という名前は、「前作」『オリオン』との関連で付けられてると見て間違いないんではないかと思う。第二巻に至っては、オリオン座がのシンボリズムが再利用されてるし。とすると、「機動隊」の名前の真意は縁の「機織隊」ということなのかな?それで、素子は「「世を救おうとする欲望」を断ち切る剣の素粒子」なのかな?とか。

 あと、さらにどうでもいいけど、「伺か」の中身と外見の名前がGhostとShellなのは、『攻機』の影響なの?

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ウェブ社会の『老子』.2

『老子』の自由観

 前回、『老子』がハト派マキアベリズムの経であり、その権力行使の手法が「環境管理型権力」であることは、お話しました。そして、上遠野浩平はおそらく『老子』を読んでいるであろうことも。『老子』といえば、老荘思想で、現実離れした小村指向の仙人の理想主義だ、程度にしか思われていないと思うのですが、伝統的には『孫子』の思想の基礎となっていると見なされてきました。つまり、戦国時代の実践思想として、現実的なものと見られていたということです。

 しばしば理想主義と勘違いされがちな、「小国寡民」という思想は、連邦制・分割統治・最小政府を指しているのであって、「大国は悪だ。世界が小さな村であれば平和なんだ。」というような意味合いはありません。民衆の牙を抜き、かつ生産を充実させ、ほどほどの利益を常に確保してやり、衆愚の腰抜けにしてやれば、統治はスムーズになり、そして、それが、最終的には戦争を回避でき、民に災禍及ぼさない最も慈悲深いやり方なのだという、どろどろの統治論なのです。そこには、個人の実利についての配慮はあっても、個人の自由意志の尊厳に対する配慮はなく、それこそ藁くず同然に扱っています。これは、本当に怜悧なマキアベリズムであって、「理想主義」からは程遠い思想であるといわざるを得ません。

 それゆえ、前回述べたように、「消極的自由」「~からの自由」を重んじて、「積極的自由」「~をする自由」の優先順位は低い思想であるわけです。そして、政治思想としての『老子』は「積極的自由」の重要性を軽んじているのではないか?という批判にもあらかじめ見解を示しています。まず、「積極的自由」は「消極的自由」をインフラとして可能な自由ですから、もとよりプライオリティは高いわけです。老子では「積極的自由」を達成する個人の能力を「徳」と呼び、物/存在のインフラ的な基本作用・本質・性質を「道」と呼びます。そして、「徳」はそれを保持しようとすると、却ってその力を失うと強調します。その根拠は、「そういうものだから」です。

 「徳」は社会の時代に限定された価値、規範、権力、認識に立ってその中で、利得・目的を達成する力なので、それはその社会の歴史的・環境的資源に依存した恣意的なものだと『老子』は全編の社会描写を通して指摘します。そして、それは自然である有限な身体の認識・維持といった作用を惑わし、疲弊させるが故に失われ、そうした価値観も自然の中の特殊ケースに過ぎないため、持続可能性に乏しく、次々に変わる価値観の一つに過ぎないため、自然のインフラである「道」には及ばないと見なします。それゆえ、持続可能性に乏しい人間の作為とは無縁な世界=存在自体の性質である「道」に対して「無為」であることを勧めるのです。

 ここで、『老子』のいう「無為」とは、abulia(病的無行動。無為と訳される。『ブギーポップ・パラドックス』でいう無為はこれ)ではなくfree(不干渉)です。聖人であるための認識のトレーニングを前提としており、社会を最小限の力と行動で誘導するために、認識を社会的価値コードから引き離すことを原則としています。それは、政治的レベルでは、予防的セキュリティを徹底するためであり、価値論のレベルでは、何かの事柄を為したいという欲望の存在を、「消極的不自由」と見なし、自己の資源となる力の増大を招く行動一般を「積極的自由」の可能な範囲と見なすからです。そして、こうした問題策定は、ウェブ社会における自由論とオーバーラップしており、現在もとりあえずは政治学的問題としては、そういう手しかないだろうと考えられています。格別権利を侵害する存在のいない時は命を捨ててまで、増大させるべき自由もないからです。だから、『老子』は社会的恣意性に、認識が絡めとられることを強烈に警戒するのです。「道の道とすべきは、常の道にあらず。名の名づくべきは常の名にあらず。」という言葉をその最初にとくのは、そのためでしょう。このことは、ウェブ社会の再帰性や、自己成就的性質に関する議論と共通の問題です。

意味からの自由

 前回、引用した梅田氏のこれからの10年の(ウェブ社会の)三大法則

第一法則:神の視点からの世界理解 

第二法則:ネット上に作った分身がカネを稼いでくれる新しい経済圏 

第三法則:(≒無限大)×(≒ゼロ)=Something‘あるいは消えて失われていったはずの価値の集積

のうちの、第一法則を逆に読み解いてみれば、誰もが神の視点にたって世界を理解する時、神の視点は力を得るが、私の視点はよりどころを失うとも見ることが出来ます。しかし、高能力が当たり前になる人間コモディティ時代にあって、神の眼を捨てることなどできないことです。では、何の為に神の眼の自由を作り出すのか?この問いに、多くの人は回答に窮することでしょう。それでも、認識を脱コード化して「自由」にすることで、固定的諦観から身を解き放つことを通してしか、解決策は見出されないでしょう。

 そのための見方が、「天地は仁ならず」です。ブギーポップのオキシジェン様の言葉を借りるなら、「世界を支配する方法」は「認識することだ。くだらぬジンクスでも、絶対的真理でも、それは同じこと・・・・・・世界を造っているのは”認識”に他ならない。」ということです。『老子』で言う「百姓」とは、民衆でも、王でも、皇帝でも、造物主でもと言う意味です。それを藁くずのように転がすだけだと。そして、「道」とは単にそうであるというだけの「こと」です。つまり、「単にそうであるということは、ただそれだけのことであるということ」は、すべての認識されるものがそうであることを免れません。民衆が民衆「である」ことは逃れえず、造物主が造物主であるということは免れ得ない。民が王になっても、王「である」ことから逃れえず、民が王「になる」ということからも免れえません。「単にそうであるということは、ただそれだけのことであるということ」は、ただ知ることが出来るだけのことです。

 然しながら、それは世界を支配する唯一のアプローチなのです。なぜなら、認識できないものは制御できないからです。インターネットは、人間の認識をかつてないレベルまで拡張するでしょう。だからこそ、「ここに字が書いてある」「これを字だと思っている。」「これに意味を見出している。」「意味があると思っている。」など、「ただそれだけ」であることの次元の認識を保持することが、困難になっていくことでしょう。だからこそ、情報からの自由のために、認識の自由が重要になるのです。 それは、ネット・リテラシーであるとよくいいます。しかし、情報は常に何かについての意味であり、意味は解釈の欲望のあるところにしかありません。

 

『老子』にはこうあります。「常に無欲にしてその妙を観、常に有欲にしてその儌(行人偏)を観る。この両者は同じきに出でて、しかも名をことにす。その同じきを玄と謂い、玄のまた玄は衆妙の門なり」

 妙は俯瞰風景、儌は部分です。それらの出所を「玄」といいます。玄の字は古くは糸を束ねた様を模るといわれますが、暗黒の夜の空の闇色の形容詞です。玄天といえば夜空の意味で、す。つまり、基本的に闇の中でぼんやりと、曖昧模糊として、それが何か特定することもできないような形でしか、ものごとが認識できないような感覚を指しています。そして、それの窮みが「衆妙の門」つまり世界の源たる認識器官であると、第一章で述べます。しかし『老子』はあくまで欲によって世界が意味を持ち始める「前の」「玄」黒の価値を強調するのです。

 上遠野の作中作家・霧間誠一の言葉に、「闇の中で光を探す探すのは正しいこととは限らない。ほとんどの場合、光は幻惑に過ぎず、闇それ自体が既に答えであるからだ。」というものがあります。『老子』でも「その白を知りて、その黒を守れば、天下の式と為る。」とあり、つまり自明さ明晰さを保留し、多義性、複雑性の認識に留まることを勧めている点で両者は共通しています。そして、それはアノマリーの時代の人間の共通の感覚なのかもしれません。

 それ自体が何かの意味を持つのではない「空虚であること」の他に、依拠する論拠や価値を持ちませんが、そのこと自体の価値は数えつくすことが出来ないような「玄」。上遠野の『ぼくらは虚空に夜を見る』を思い出しますが、同様の意味の概念が「道はむなしきも、みたず。」何もない空間自体の多様な価値も指しているのです。

 それは、水の中を歩いて、足を着く底がないような認識です。しかし、それこそ、ある意味では、あたかも宇宙という天にいる神が、無重力の中で世界を夢見ているような、「神の眼」です。

 『老子』に「戸を出でずして、天下を知り、まどを窺わずして、天道を見る。」とあります。それは別にインターネットを念頭に置いたものではなく、すべての先入観を保留し、先入観を次々造ってしまう自分自身に知悉することで、「どこにいてもそこは宇宙の一部」というロジックではありますが、ありのままの認識プロセス=内容「道」の有用性は、体系的知識に勝るとも劣らぬ融通性をも備えうるのだというオルタナティヴを示しているのです。それは、認識の次元における価値コードからの自由という「新しい」価値です。それは、「玄牝」という名で暗示されています。

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