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ウェブ社会の『老子』.2

『老子』の自由観

 前回、『老子』がハト派マキアベリズムの経であり、その権力行使の手法が「環境管理型権力」であることは、お話しました。そして、上遠野浩平はおそらく『老子』を読んでいるであろうことも。『老子』といえば、老荘思想で、現実離れした小村指向の仙人の理想主義だ、程度にしか思われていないと思うのですが、伝統的には『孫子』の思想の基礎となっていると見なされてきました。つまり、戦国時代の実践思想として、現実的なものと見られていたということです。

 しばしば理想主義と勘違いされがちな、「小国寡民」という思想は、連邦制・分割統治・最小政府を指しているのであって、「大国は悪だ。世界が小さな村であれば平和なんだ。」というような意味合いはありません。民衆の牙を抜き、かつ生産を充実させ、ほどほどの利益を常に確保してやり、衆愚の腰抜けにしてやれば、統治はスムーズになり、そして、それが、最終的には戦争を回避でき、民に災禍及ぼさない最も慈悲深いやり方なのだという、どろどろの統治論なのです。そこには、個人の実利についての配慮はあっても、個人の自由意志の尊厳に対する配慮はなく、それこそ藁くず同然に扱っています。これは、本当に怜悧なマキアベリズムであって、「理想主義」からは程遠い思想であるといわざるを得ません。

 それゆえ、前回述べたように、「消極的自由」「~からの自由」を重んじて、「積極的自由」「~をする自由」の優先順位は低い思想であるわけです。そして、政治思想としての『老子』は「積極的自由」の重要性を軽んじているのではないか?という批判にもあらかじめ見解を示しています。まず、「積極的自由」は「消極的自由」をインフラとして可能な自由ですから、もとよりプライオリティは高いわけです。老子では「積極的自由」を達成する個人の能力を「徳」と呼び、物/存在のインフラ的な基本作用・本質・性質を「道」と呼びます。そして、「徳」はそれを保持しようとすると、却ってその力を失うと強調します。その根拠は、「そういうものだから」です。

 「徳」は社会の時代に限定された価値、規範、権力、認識に立ってその中で、利得・目的を達成する力なので、それはその社会の歴史的・環境的資源に依存した恣意的なものだと『老子』は全編の社会描写を通して指摘します。そして、それは自然である有限な身体の認識・維持といった作用を惑わし、疲弊させるが故に失われ、そうした価値観も自然の中の特殊ケースに過ぎないため、持続可能性に乏しく、次々に変わる価値観の一つに過ぎないため、自然のインフラである「道」には及ばないと見なします。それゆえ、持続可能性に乏しい人間の作為とは無縁な世界=存在自体の性質である「道」に対して「無為」であることを勧めるのです。

 ここで、『老子』のいう「無為」とは、abulia(病的無行動。無為と訳される。『ブギーポップ・パラドックス』でいう無為はこれ)ではなくfree(不干渉)です。聖人であるための認識のトレーニングを前提としており、社会を最小限の力と行動で誘導するために、認識を社会的価値コードから引き離すことを原則としています。それは、政治的レベルでは、予防的セキュリティを徹底するためであり、価値論のレベルでは、何かの事柄を為したいという欲望の存在を、「消極的不自由」と見なし、自己の資源となる力の増大を招く行動一般を「積極的自由」の可能な範囲と見なすからです。そして、こうした問題策定は、ウェブ社会における自由論とオーバーラップしており、現在もとりあえずは政治学的問題としては、そういう手しかないだろうと考えられています。格別権利を侵害する存在のいない時は命を捨ててまで、増大させるべき自由もないからです。だから、『老子』は社会的恣意性に、認識が絡めとられることを強烈に警戒するのです。「道の道とすべきは、常の道にあらず。名の名づくべきは常の名にあらず。」という言葉をその最初にとくのは、そのためでしょう。このことは、ウェブ社会の再帰性や、自己成就的性質に関する議論と共通の問題です。

意味からの自由

 前回、引用した梅田氏のこれからの10年の(ウェブ社会の)三大法則

第一法則:神の視点からの世界理解 

第二法則:ネット上に作った分身がカネを稼いでくれる新しい経済圏 

第三法則:(≒無限大)×(≒ゼロ)=Something‘あるいは消えて失われていったはずの価値の集積

のうちの、第一法則を逆に読み解いてみれば、誰もが神の視点にたって世界を理解する時、神の視点は力を得るが、私の視点はよりどころを失うとも見ることが出来ます。しかし、高能力が当たり前になる人間コモディティ時代にあって、神の眼を捨てることなどできないことです。では、何の為に神の眼の自由を作り出すのか?この問いに、多くの人は回答に窮することでしょう。それでも、認識を脱コード化して「自由」にすることで、固定的諦観から身を解き放つことを通してしか、解決策は見出されないでしょう。

 そのための見方が、「天地は仁ならず」です。ブギーポップのオキシジェン様の言葉を借りるなら、「世界を支配する方法」は「認識することだ。くだらぬジンクスでも、絶対的真理でも、それは同じこと・・・・・・世界を造っているのは”認識”に他ならない。」ということです。『老子』で言う「百姓」とは、民衆でも、王でも、皇帝でも、造物主でもと言う意味です。それを藁くずのように転がすだけだと。そして、「道」とは単にそうであるというだけの「こと」です。つまり、「単にそうであるということは、ただそれだけのことであるということ」は、すべての認識されるものがそうであることを免れません。民衆が民衆「である」ことは逃れえず、造物主が造物主であるということは免れ得ない。民が王になっても、王「である」ことから逃れえず、民が王「になる」ということからも免れえません。「単にそうであるということは、ただそれだけのことであるということ」は、ただ知ることが出来るだけのことです。

 然しながら、それは世界を支配する唯一のアプローチなのです。なぜなら、認識できないものは制御できないからです。インターネットは、人間の認識をかつてないレベルまで拡張するでしょう。だからこそ、「ここに字が書いてある」「これを字だと思っている。」「これに意味を見出している。」「意味があると思っている。」など、「ただそれだけ」であることの次元の認識を保持することが、困難になっていくことでしょう。だからこそ、情報からの自由のために、認識の自由が重要になるのです。 それは、ネット・リテラシーであるとよくいいます。しかし、情報は常に何かについての意味であり、意味は解釈の欲望のあるところにしかありません。

 

『老子』にはこうあります。「常に無欲にしてその妙を観、常に有欲にしてその儌(行人偏)を観る。この両者は同じきに出でて、しかも名をことにす。その同じきを玄と謂い、玄のまた玄は衆妙の門なり」

 妙は俯瞰風景、儌は部分です。それらの出所を「玄」といいます。玄の字は古くは糸を束ねた様を模るといわれますが、暗黒の夜の空の闇色の形容詞です。玄天といえば夜空の意味で、す。つまり、基本的に闇の中でぼんやりと、曖昧模糊として、それが何か特定することもできないような形でしか、ものごとが認識できないような感覚を指しています。そして、それの窮みが「衆妙の門」つまり世界の源たる認識器官であると、第一章で述べます。しかし『老子』はあくまで欲によって世界が意味を持ち始める「前の」「玄」黒の価値を強調するのです。

 上遠野の作中作家・霧間誠一の言葉に、「闇の中で光を探す探すのは正しいこととは限らない。ほとんどの場合、光は幻惑に過ぎず、闇それ自体が既に答えであるからだ。」というものがあります。『老子』でも「その白を知りて、その黒を守れば、天下の式と為る。」とあり、つまり自明さ明晰さを保留し、多義性、複雑性の認識に留まることを勧めている点で両者は共通しています。そして、それはアノマリーの時代の人間の共通の感覚なのかもしれません。

 それ自体が何かの意味を持つのではない「空虚であること」の他に、依拠する論拠や価値を持ちませんが、そのこと自体の価値は数えつくすことが出来ないような「玄」。上遠野の『ぼくらは虚空に夜を見る』を思い出しますが、同様の意味の概念が「道はむなしきも、みたず。」何もない空間自体の多様な価値も指しているのです。

 それは、水の中を歩いて、足を着く底がないような認識です。しかし、それこそ、ある意味では、あたかも宇宙という天にいる神が、無重力の中で世界を夢見ているような、「神の眼」です。

 『老子』に「戸を出でずして、天下を知り、まどを窺わずして、天道を見る。」とあります。それは別にインターネットを念頭に置いたものではなく、すべての先入観を保留し、先入観を次々造ってしまう自分自身に知悉することで、「どこにいてもそこは宇宙の一部」というロジックではありますが、ありのままの認識プロセス=内容「道」の有用性は、体系的知識に勝るとも劣らぬ融通性をも備えうるのだというオルタナティヴを示しているのです。それは、認識の次元における価値コードからの自由という「新しい」価値です。それは、「玄牝」という名で暗示されています。

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