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ガンダム00と「マキアヴェリの孤独」

 さて、「マキアヴェリの孤独」に関連して熱いのは『天元突破グレンラガン』のロシウの行動だけれども、今度のガンダムは 事前の解説で、図式が明確に提示されているように、テーマは「戦争によって戦争を停める矛盾」がテーマとなっている。先代の『SEED』と異なり、というかそここそ『SEED』の根本的問題点であることに、自覚的に課題を継承しているのだといえると思う。というのも『ハガレン』の水島監督・『おねティ』黒田洋介氏のコンビと、ストーリーのテーマ性に自覚的なシナリオテーリングの実績があるからです。そうした人材がそろっており、今回はガンダムブランド抜きで面白い作品になる可能性が高いように思われるので、ガンダムについては詳しくもないし、あまりよいイメージを持っていないけれども、今回はちょっと論じる価値があるのではないかと考えています。

 「マキアヴェリの孤独」とは、もともとフランスのマルクス系思想家ルイ・アルチュセールが最晩年に書いた小編『マキアヴァリの孤独』という論考から来ています。その中で引かれるマキアヴェリの「国を創設するものは孤独であらねばならぬ」という言葉から、国家を実践的に考察する上での、思想的な孤立の意味の重要性を論じてゆく内容です。アルチュセールはこれを書いた後、しばらくして、自殺します。

 「マキアヴェリの孤独」とはその論考のなかでは、思想的な孤立性について特に論じているのですが、この小編からは多数の生命を守るために少数の犠牲を払うということが時に不可避であるという国家の根本矛盾を引き受ける者の、打ち明ける相手のいない孤独をもらすことが目的であるかのように感じられるます。 人民の圧政からの解放を目指して行われたマルクス主義革命が、内部の権力抗争などの末、結局は混乱、圧政、虐殺を招くことになるという結果を見たアルチュセールが、人間の人間による統治には常に人間同士の欲望から来る抗争が付随し、帝政だろうと共和制だろうと統治が廃絶されれば、抗争は免れないというマキアヴェリの『君主論』でも触れられる基本理念を見直し、その上でなおこの弱者の犠牲を出さぬという難問を乗り越えることに挑戦したテキストが『マキアヴェリの孤独』です。

 『君主論』には「君主は、時に統治を維持するために残酷であることが、民衆に対して慈悲深いときがある。」というテーゼが示されています。これは、暴力というもののもつ矛盾した性格を暴き出すパラドクスです。法治国家の秩序体系の中では、暴力が単なる悪、犯罪であることは自明です。しかし、その土地が暴力で満ち、抗争が絶えぬ無法な土地では強大な暴力で対立者を畏怖させ秩序を回復するために用いられる暴力は正当化せざるを得ないということがあります。

 そうした状況では暴力は魅惑に満ち、暴力の主体「君主」は阿諛追従、誘惑懐柔に囲まれ、親であれ配偶者であれ、いかなるものに対しても油断は許されません。また、君主に平和を放棄させるよう働きかけてくる誘惑は皆が皆毒々しい姿で誘惑してくるわけではないのです。マルクス主義のように、民衆に対する慈悲に発するような理念さえも、平和に対しては時に敵となる、マキアヴェリの時代では宗教権力がそうでしたが、そのため統治を守るための処世術にはこの世のあらゆるものからの孤独を要するというのがマキアヴェリの主張です。

 マキアヴェリはそうした君主に「他者に破滅させられぬようにするには、細心の注意が必要です。」不安を煽り、囁きかけることで人間の利己主義に訴えかけて正当な統治を行わせ、国を救おうと試みます。それが、マキアヴェリの作戦であり、アルチュセールが『マキアヴェリの孤独』で訴えかけた事柄です。しかし、この「マキアヴェリ孤独」とは、大切なものを守りたいという目的を実現するために、大切なものを守りたいという自分の心からさえも孤独であらねばならぬという根本矛盾を生きることの孤独であるわけです(ロシウがヨーコに「あなたは生き残るべき人だ。」と通信したのを思い出します。)。「その行為。崇高なる者の苦行か。」というコピーは、暴力の主体、君主に求められる「いかなる誘惑にもつられてはならない。」という状況をうまく言い表しています。ただ、マキアヴェリの言う君主とは、いかなる人にも限定されていないということがミソで、限られた誰かに向けられた貴族主義を支持するものではありません。すべての人が君主になりうるということは、誰かがその決断を制度的に代行すべきということを示唆するものでもありません。

 さて、00ではエクシア、デュナミス、ヴァーチェ、キュリオス、ソレスタルビーイングと明らかにキリスト教の神を意識したネーミングをしています。これは、まあ前作のアレがアークエンジェル(下級三隊第二位)なら、こちらは中級三隊だとかいう、どうでもいい設定なのかもしれませんが(あと力天使かぶってますけど)、日常倫理の外部の存在、あるいは例外状態における主権者(シュミット)とキリスト教神学における絶対他者たる神の関係付けや、位置づけを物語の俎上に上げようとしているのかもしれません。でもそれなら、ソレスタル・ビーイング(天空の(内在的)存在)ではなく、ソレスタル・イグジステンス(天空の(超越的)実在)というネーミングのほうがいいと思うんですが、なにか意味があるのかも知れませんし、ハッタリかもしれませんね。それと、プトレマイオスはグノーシス派の世界観を語ったとされる人物ではないでしょうか。すると、先に述べたキリスト教神学を射程に入れたというより、グノーシス神話の雰囲気を作品に入れたかったのかもしれません(エヴァ風にしたくて設定にいれた『エデン』のように)。

 「神ならぬ人が、人を裁く矛盾」という慣用表現があります。これは、必ずしも宗教的な表現ではありません。「神のみぞ知る」という言葉が、「誰も知らない」という意味を持つように、裁判者には、究極的に適格者など誰一人としていないということを意味することがあります。いかなる利害関係からも無関係な人間はいないし、判決に必要な過去の事実のすべてを知っていて、かつそれを誰に対しても証明できるような力量を備えた人間も、ケースも存在しないからです。それゆえ「天空の存在」≒神・天使を自認し、人類利害の外部に立つ存在であると主張するものたちの出現を描くためのガジェットとして、天使の階級名を採用するというのは、必ずしも厨設定とはいえないかもしれませんね。

 前作は武力で戦争を停めるということの矛盾に対して「殺さずならいいでしょ」と無自覚でした。そりゃあ、フィクションなら武力を行使して被害をほかに出さぬということは可能だろうけど、実際の戦争への反戦をテーマに作品作ってるならそんなの無責任すぎるし、フィクションで戦闘行為の実際を覆い隠したらそれは最悪です。それを受けてか、00では最初から、その矛盾自体に物語の焦点を当てて、コピーにしています。振り返ってみて、それは存外ガンダムの歴史で見落としてきた点で、あると思います。例えば初代でも理念の正当性や個人の生の充実はテーマに上がっていますが、犠牲になる他者からは眼をそむけています(単に焦点化されていないこととは違います)。SEEDは犠牲となる個人に眼を向けながら、犠牲を最小にするシステムや政治思想のあり方を軽視して、結果単なる殺戮劇に終始して、勝手に人間が戦争を止めることはできないと前提化してしまいました。

 ガンダムは、戦争状態における人間のディスコミュニケーションに焦点をあてて描き、人間は戦争を止められぬ生物という見方に説得力を加えるシステムとして機能してきた経緯があります。そして、ガンダムのファンたちも、それを問題として認識していなかったり、端からネタと思っているにもかかわらず戦争放棄は不可能というテーゼは支持していたりと、多くの好ましからぬ影響を度外視してきました。それは、結局のところ体制への不信と人間の可能性への不信をごっちゃにしてしまったニヒリズムであって、褒められたものはありません。だからこそ、ガンダムの歴史のなかで「だってほかに方法なんてないでしょ」というなし崩し的な仕方で正当性が自明のものとされてきた「武力による戦争介入」ということの個別相をチェックしなおす作業は、ある意味ではガンダムの歴史に対する挑戦ないしリハビリテーションの作業になるとおもいます。

 そして、その作業をやって初めて、例外状態における主権者の問題とナチズムの思想根拠のひとつになってしまった話題の「決断主義」と『デスノ』『ギアス』とガンダム(特に富野)の関係を検討する作業が出来るようになるではないでしょうか?何れにせよ一年は長いのでまだ、期待するのは早計かもしれませんが。

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