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義捐金について

 畏友の文化人類学者に聞いた話ですが、もともと、義援金という言葉は、義捐金と書いたそうです。義援金という言葉には、「義によって援けるお金」の意味が混入してしまう。それは、「義理の手助け」の意味になり、字義の中に傲慢さの印象を持ち込むし、手助けならば礼儀として断るべきものという意味を帯びてしまう。本来の表記である義捐金という言葉は、「義によって手放した(捐てた)お金」を意味するので、受け取る側は受け取らなければ義を無駄にした形になるので、送る方は貰ってもらわねば困る、受け手は、受け取らねばならないから受け取るという形になるので、礼にに適った遠慮してはならないものとしてお金を受け取ることができるのだそうです。だから、正しく義捐金と書くべきなのだとおっしゃっていました。

 岩波の講座宗教6に収録された平等原理の現在という論考に、バングラデシュのフォキール/フォキルニへのザカート(喜捨)に関する習慣が記されています。フォキール/フォキルニ(男性/女性)とは、言ってみればイスラム版民間宗教者です。ムスリムはその戒律から、収入のうちの数パーセントを必ず、経済的に貧しい人、寡婦、孤児に寄付しなければなりません。そこで、受け取りを担うのがフォキール/フォキルニです。この宗教者は、障害などを抱えていたり、一人身で高齢の親を抱えていたりして、なおかつ近所の家庭、村なども手助けが出来いないようなときに、地域で協議してフォキールになってもらい、喜捨で生活するようになります。

 フォキールはいわば出家修行者兼喜捨すべき人なので、ムスリムはフォキールに喜捨を貰ってもらわないと困るわけで、フォキールは比較的高いを地位を占めています。喜捨の額が多いことはステータスだからということもあり、富裕な人々の祝いの席などに呼ばれ、もてなしをうけます。そして、フォキールは施しを受けて感謝するのではなく、逆に貰ってもらわないと困るお金を受け取ってもらうので感謝される存在として扱われます。一方、フォキルニは、そのまがい物という差別待遇ではあるものの、生きていくのに最低限度のお米やお金を得ることが出来ます。彼ら/彼女らが一軒当たりからうけとる喜捨は、ほんの米ひと握り、十数粒ほどですが、一日中近隣の村を回ると、それでも、その日の家族の食事としては飢えない程度の量に(平均すれば)なるそうです。また、このフォキール/フォキルニには週の曜日ごとに回る地域がバラけていて、ひとつの地域に同じ日フォキール/フォキルニが集中しないように慣習が出来ています。

 こうした習慣の結果、バングラデシュは二十年前世界最貧国といわれながら、インドなどに比べ遥かに餓死者が少ないというセーフティネットを持つことが出来ていました。これはいわば、義援金ではない義捐金習慣の賜物で、「義捐金」、「制度・習慣的に貰ってもらわねば困るお金」のあり方の例の一つだと思います。

 翻って、日本仏教の葬式のお布施です。およそ、仏教の堕落だと指摘されることの多いこの習慣ですが、一方で死者に対してできるのは盛大に葬式を上げることしか出来ないという遺族の気持ちの引き受け先でもあることによって、良心あるお坊さんたちも受け取りを止めないという面もあります。かわりに、NGOに寄付すればよいではないかという意見もあります(私は割りと賛成です)。しかし、それでは死者に対して何かするのではなく、死者にする代わりに誰かにするというイメージが強くなります。ベストな方策としては、お坊さんが集めたお金をNGOに寄付するというのがよいでしょう。元来、大乗仏教のお布施は出家在家を問わず、放棄(喜捨)の修行のためにすることであって、信徒がお坊さんにするものという見方は片手落ちなのです。こうしたお寺からの再寄付の運動は、一部にはありますが、お寺の世界は現在、超格差社会で、お布施も都心などに一極集中のため、ほとんどのお寺では後継者になる子供を育てると、もう余裕がなくなり中々出来ません。(上納金もあり)寄付金も小額になります。それでも、こうした「義捐金」によって、コンビニよりも多いというお寺の経営が(ほとんどが兼業お坊さんながら)継続されています。

 こうした、義捐(ポトラッチとは少し違うかも)の習慣は近代国家の法的強制から独立したものとしての、重要かつ貴重な経済圏を作り上げます。そして、多大な富を求めないならば、いまや旧来の宗教者に代わって、新たな希望を齎すものとなりつつあるクリエーター・アーティストたちに自由な活動を担保する文化的寄付金の慣習・制度として、可能性は充分にありうるものだと思います。それこそ、送る側がプレゼントしたいという欲求から喜んで捐てるものとして、文字通り、本来的な「喜捨」というべきなのかもしれません。

 もっと進んでいえば、宗教団体を設立して、クリエーターを宗教者と定義して、宗教団体の免税特権を利用して作品の購入ではなく、寄付行為ということにすべきではないかと思うのですが、理解を得ていくのは大変そうです。

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妣が国の破れた扉・符合の魔術師のはじまり

 前に一方的に約束したユビキタスレムナント時代(亡霊遍在時代)の記憶とについて『電脳コイル』も佳境を迎えたのでそろそろ再言及しておこうと思います。前回の記事が(このブログの記事も全部ですが)訳が分らないと指摘されてしまったので、今回は分りやすく解説しようとおもいます(出来るかぎりで)。

 そもそも、「ユビキタスレムナント」の「レムナント」亡霊とはなにか?ということについての私の考えを述べる必要があるわけですが、もともとこのブログはよく話をする知り合いしか読まないものと想定していたので、ある程度知ってるものと思って、記述してはおりませんでした(どうも、ごめんなさい)。そこで、亡霊というものについての私の考えについて、ちょっと触れておきます。私の考えでは亡霊は死後の人間の存在です。とりわけ、その実体は想定しません。水木しげるのマンガのように天婦羅にすると美味しいような霊魂の存在はあろうとなかろうとあまり関係ありません。人間の死後に残る、死者の残留物が亡霊です。つまり、遺言、遺品、遺産、亡者の記憶、記録、存在の痕跡、生前・死後の物質的・精神的影響などの総称が亡霊です。とりわけスピリチュアル(精神的・心的)な性質をもつ存在・現象を亡霊と考えています。

 死後にも存続する霊魂という概念は面白いものです。生きている時には心・生命・精神・魂とよばれ、体から遊離すれば生霊、死んだ後は亡霊・幽霊と呼ばれます。そして、生きている時は不気味でもなんでもないのに、ひとたび帰る体が失われると不気味なものとなります。この性質は、人間の所有物一般と性質を同じくします。

 もともとサイバーな亡霊の遍在について考えるきっかけになったのは『真夜中のインターネット』のブログ墓場の記事を読んだことです。この記事を読んで気が付いたことは、死後に残留する生前のものという定義においては、死後のブログは亡霊と同じものだなということでした。そして、それはしばしば不気味なものとなります。『電脳コイル』でいえば「カンナの日記」のようなものですね(宣伝しか知りませんが『クローズド・ノート』が思い起されます)。では、サイバースペース上に存在する「残存したもの」は端的に何なのでしょうか?

 まず、それは痕跡です。人が死んだ後にその人の生きた空間・時間はすっぽりと失われ、その人の所属したコミュニティにはその存在の抜けた空洞が生まれます。また、その人が生きていたら埋まっていた時間が空白となり、その人の存在は追憶となります。ここで注意してほしいのは、ある人が追憶になるということは、静態的に追憶となるだけではなく、その人がいたらこうなっていただろうという可能性への予期の癖も追憶となるということです。たとえば、いないと分っていても、ついいつもの癖で名前を呼んでしまうとかそういうことです。およそ、このとき返事はありません。しかし、返事が返って来たような気がしたら…それは亡霊と呼ばれるのではないでしょうか?

 個人のブログや、サイト、アカウントは基本的に物理的に使用者を個人と特定せず、その存在を確認しません。したがって、ブログの更新者が入れ替わっても、そこから交代が認識できるとは限りません。文字通りの意味でゴーストライターが出来てしまう。そうでなくても、「あのブログしばらく更新がとまってるなあ。」と思っても、管理人が飽きたのか、亡くなったのかさえ、確認できません。しかし、その死後も残った記事は多くの人とコミュニケーションを続けることが出来ます。ここで「残存したもの」は、作者の死後もつい呼びかけてしまうコミュニティに対して返事をしてしまいます。ネットで、もしググッたものが亡くなった人のコンテンツだったならば、まちがいなく死者とコミュニケーションに成功したといえるでしょう。このとき、現象として、亡霊とブログ墓場と、どう違うというのでしょうか?

 ところで、一部で「ヤンマーニ」として有名な梶浦由記さんの『NOWHERE』(何処にもいない)という曲があります。前から非常に気になっているのですが、最近まで梶浦さんの歌詞は主語が亡霊のように思えて仕方なかったのです。たとえばこんな歌詞があります。

 「貴方にもし私を捜す勇気があれば 何処にでも私はいるの」

 奇妙なくらい主語のひとは、「貴方」に対して何も出来ず、せず、しかし非常に深刻な要求を突きつけます。そして最後に上記のように暗示するのです。目の前にいる人に手も足も出せず、存在感だけを示し、メッセージを伝えることもおぼつかない。まるで幽霊になったよう。それは離人症の体験そのものです。離人症は幽霊になる病気とか、幽体離脱する病気(電脳コイル)と形容されることもあります。何処にでもいる。それは遍在するということです。

 この世に遍在するのは神だけと、キリスト教神学ではされています。あるいは三位一体なる聖霊か。キリスト教神学において聖霊は、しばしば人間の尊厳の根拠とされます。言ってみれば人間のうちに内在する良心です。「何処で何をしていても、お天道さまがみているぞ。」というときのお天道さまに近いものです。自分では知らないところから、一方通行に見られているのではないかという猜疑は、「自分の知らないところ」を背景にする問いなので解決の仕様のないものです。私たちは日常、人が自分を見ているかもしれないという感覚や猜疑を実際に眼が届くところでその視線の向きを確認して解消することが出来ます。しかし、身体なきもの、死者や聖霊の視線、まなざしは、そうした仕方で消し去ることは出来ません。なので不確定なもの、茫漠とした、もやもやしたものになります。どこにでもいるものになります。

 精神分析家のラカンは「無意識とは他者の語らいである。」「欲望とは他者の欲望である」といいました。人は人の真似をして人になる。何かを望む行為も、何かをそれと認識する仕草も。だから、基本的には生理的反応(欲動)は別にして、人間の欲望(demand)は、どんなに微細なレベルにいたるまで交錯していても外部に由来するものなのだということです。そして、その起源は常に死者にたどり着きます。人間はもとより、死者の期待(まなざし)・欲望・言葉で出来ています。

 例えば、先ほどの例で言うと、亡くなった人の名前をつい呼んでしまうのは、応えて欲しいという欲望があるからです。そこには、もともと応えがあったから、その欲望は次の望みへと繫がっていきます。しかし、今やその応えはありません。そのかわりに、昔はあった感触が追憶としてそこに見出されるばかりです。そして、その感触は、他者自身の「応えたいという望み」を期待していた、自分の期待の体験の記憶です。

 人間がコミュニケーションなしでは生きられない生物だとすれば、他者の期待を期待せずには生きられない存在です。したがって、人間の社会から「亡霊」がいなくなることはないでしょう。その意味で、もとより亡霊は、人間のいるところ常に何処にでもいる。「ユビキタス」なのです。

 今はなきマーク・ワイザー氏がうっかりつけてしまった「ユビキタス」の語はアメリカのオプティミズムと溶け合うことで、ネットを通して”善意”が広がっていくというイメージに、キリスト教の聖霊の遍在という古いイメージの後見人をつけてしまったわけです。

 現在サイバースペースに向けられるまなざしは、ルネッサンス・オカルティズムに向けられるまなざしと相同の様相を呈しつつあります。元々サイバースペースを巡るイメージには、魔術の香りが強くありました。何度か引いている『2001年宇宙の旅』や『地球幼年期』で知られる小説家アーサー・クラークが言うように、「高度に発達した科学は、魔術と区別がつかない。」ためです。「シンギュラリティ」の語の考案者である、ヴァーナー・ヴィンジは『真の名』SFでという現代の魔術師たちの戦いを描き、そこからインスパイアを受けた、ギブスンはカバラ的なサイバーパンク『ニューロマンサー』を描き、というように。シンギュラリタリアンのレイ・カーツワイルも「将来はハリー・ポッターのような描写が案外近いのかもしれない。」と述べています。いまでも、凄腕のハッカーをウィザード(魔法使い)と言いますね。

 英語圏のSF未来像は、こうした魔術的イメージを背後に持って、現実が駆動されている面もあるわけです。例えば、仮想世界の代名詞SECOND LIFEの運営会社リンデン・ラボの創始者フィリップ・ローズデールは小説『スノウ・クラッシュ』に登場する仮想世界「メタバース」を実現するために、リンデン・ラボを創設したと言っています。電脳コイルでも、アミュレット、タリズマン(メタタグ)、使い魔(サッチー、球ちゃん、デンスケ)、デーモン(ミチコさん)、エレメンタル(イリーガル)、魔法陣・魔術記号(暗号)、死霊(NULL)水晶球(ディスプレー)魔術師(暗号屋)と中世風ファンタジーと置換可能なアイテムに満ち満ちています。

 しかし、なぜこれほどまでに、中世魔術とサイバースペースは親和的なのでしょうか?その理由を最近、好機得て調べることが出来ました。エリアーデ宗教百科事典(全体は未邦訳)の中世ルネッサンスヨーロッパの魔術(呪術)の項目で、次のような話を知りました。元々中世の魔術理論はアラビアのアル=キンディ経由の新プラトン主義に依拠している。その理論は現象世界の背後の真実在(霊的世界、霊界、アストラル・プラン)を前提に、人間のイマーゴ(想像=形成力)が人間のプネウマ(霊魂)あるいは光線を通じて世界に遍在するプネウマに働きかけることで、操作可能であるとするものである、と。そのためのあらゆる方法の体系が魔術であり、錬金術であり、天文学=占星術であり、科学だったわけです。

 つまり、第一に世界を本質(ヴァーチュアル、イデア)の世界と現象・物理の世界を重なり合う二重のものと想定する世界観と、第二に世界を操作するための手段の体系であるということ、第三に、その手段が遍在する記憶・自己創出的媒介(霊的存在)であるということという根本的な出自によって両者の親和性が成立したのだということです。そのため、紡ぎ出される世界が通底するし、今を語るにその言葉をおいてなくなるわけです。

 そして、それは魔術的世界を語る言葉が、まさに生気・霊魂的世界を語る言葉であり、同時に身体・物理的世界を捨象した亡霊・無意識の世界を語る言葉として強い力を持っているということの証明でもあります。『電脳コイル』がSFとしての精緻さを抜きにして、子供にも人気があるというのは(『鋼錬』同様に)失われてしまったものと直感されるものたちを描いているからだと思います。それは、自分のではなくなってしまった他者の世界、「幼年期」だからです。OPに歌われる「手を伸ばせばいつでも あるはずのぬくもりは幼い日のまぼろし」というのは、この作品のこの気配に気付いて作詞されたのかもしれません。

 さてさて、また中世ヨーロッパの話になりますが、キリスト教には生まれてすぐの子供に洗礼を施す習慣があります。しかし、昔はその前に死んでしまったり、死産してしまう子供たちが多かったわけです。そんな子供たちは、天国に行くにも受洗しておらず、地獄に行く罪もなく、かといって煉獄に行くには幼すぎるというわけで、赤ちゃん用のあの世であるリンボ界という世界があると信じられていました。そこにたどり着く前の魂はこの世で徘徊していたずらをすると言われ、妖精ピクシーがいわゆるその魂であるとされました(鬼頭莫宏の『ヴァンデミエールの翼』ピスキーもこれと同じです)。

 そして、妖精の世界は、リンボ界のようなものとして黙認された状態にあったわけです。なのでしばしば、子供は妖精の世界を行き来するという世間話がうまれました。キョウコが作中でNULLに連れ去られるシーンもそのイメージを演出するためのものなんでしょうね。このような他界を民俗学者・国学者の折口信夫は「妣(はは)が国」と呼びました(ウィニコットと折口のこの周辺は大塚英志の示唆による)。幼児の自我が母子一体の領域を離れて、その褜は「母の領域」「忘却の川」の向こうに帰る。冥界の神話と母子関係の推移の相同はユングの指摘(グレートマザーの元型プロセス)を待つまでもなく、隠喩の関係にあります。

 精神分析や心理学では児童心理について語るときに唐突に、「忘れられたものたちは、リンボ界へ旅立つ」とかいう言葉が出て来ることがあります。とくに、ウィニコットの移行対象論に絡んでよく引用されます。それはユーモアとしていわれるのですが、要は草葉の陰に行くとか、忘却の彼方に消え去る、御伽の国に帰ってしまうというほどのことで深い意味はないようではあります。しかし、そこは生まれなかったもののゆくところというニュアンスがあり、作中のCドメインとの暗示関係を考えると、つまり、「私(という意識であり、存在)」が生まれる前の世界・生まれる前のものの世界というオーラを発しているという事実こそが重要です。それこそが、この作品の最も重要な魅力であるからです。Cドメインから来たもの、イリーガルたちの描写に執拗に古々しさ・失われた世界のもの・薄命のものという徴候が表現されるのは何のためでしょう?脚本演出のこだわりかもしれません。しかし、それはSF設定との隠喩関係に精緻に織り込まれており、物語の本筋、ディスイリュージョン、幼年期の終わりの物語に深く関わっています。

 ただ、これは「未来」の物語であるということを忘れるわけにはいきません。現在の生者にとって、死者は常に過去の存在であるように、未来にとって、「現在」は過去の存在なのです。もし、人が未来の視点に立って生きるなら、現在を生きる人々は亡霊と化すでしょうし、現在を生きる人から見れば、未来の視点に立って生きる人は地に足をつけず浮遊する存在に見えるでしょう。イサコが過去の「真実」を生きたことによって幽霊と化したことが、「過去の亡霊への繰り込み」。ヤサコがイジメ(加害)の記憶を偽って記憶したことで、(転校元の学校のクラスメートにとっての)偽りの存在となったことが「現在の亡霊化=憑依」です。

 イサコが「真実」を生きることが出来なくなった時、「亡霊」となりました。この場合の「真実」とは、事実関係はさておき、それが本当のことであると見なすことが手段的に適切であるとしか言いようのない事柄のことを指します。具体的には、「死んでしまった兄の愛」です。それは結局、暗号屋としての兄への止めることの出来ない愛が挫折する契機をへて、「兄からの愛」という論証不能なものが、か細い「仲間の愛」の到来と同時に到来する時イサコは再び死者の国の(門にして鍵たるミチコの)扉を破って帰還します。

 対してヤサコの善意はその始まりにおいて捏造から始まっているが故に、その愛のすべてが偽者と化す病にとり付かれています。偽者であるが故に、善意を取り繕うことを止めることが出来ず、それゆえにその行為が利己的な目的からのものであることを脱することが出来ないものです。しかし、同じく仮設の存在である「デンスケ」の「死」の濃密さを通して、他者へのか細い道を見つけ出し、自己満足を目的とした他者評価を離れた行為としてイサコに手を伸ばす「意図した偽善」によって、はじめて利己を脱して利他に達し、忘却された記憶である「憑依霊」(NULL)を「祖霊」(オジジ)に還します。ヤサコは祖霊の遺志(ヤサコを連れ戻すこと)に連なるものになります。

 デリダは「亡霊学」というものを提唱した哲学者です。デリダは「亡霊」というキーワードで民主主義を多数者の・理性の暴力≒抑圧から逃がすための足場として、「人間」の誕生以前・現前以前=存在以前・言語化以前の何かを呼び戻そうと試みました。「亡霊学」は、情報化による価値相対化の結果として帰り来る新保守主義の「人として間違っている」とか「人間である以上守るべき」というファッショな抑圧に対置させるために、その自明のものとして拠って立つ「人間」という前提を、幽霊のような捉えどころもなく、物理的に捉えることもできないものの、濃密に存在を主張するものの次元に引き戻して脱構築しようとする戦略だといわれています。

 そして、責任というものは亡霊にも開かれてあるべきであるともいいました。『電脳コイル』の終盤はまさに、亡霊に対して責任を取る物語となっています。そして、『電脳コイル』という未来の物語はまさに、私たちに対して、過去の現在にならなかった未来(SF)として何事か訴える亡霊として眼前にあります。

 もし、デリダの言うように、人間性の概念を亡霊の概念に引き戻して考えることが重要で(私もそう思う)、有力なアプローチであるならば、人間と亡霊の境界はなめらかに接続され、人間は半ば亡霊となり、亡霊は折々に臨在し、ユビキタス化したサイバースペースは亡霊で満ち、人間の欲望も死者のまなざしで満たされるならば、そうした時代では冥界の扉の鍵も「蝶番」も引き剥がされて、この世に亡霊の遍満する社会となるのではないか?

 以上が、私がユビキタスレムナント社会という言葉で表現したかったことです。そして、そうしたメタファーや符合で埋め尽くされるようなプロセスの全体を再魔術化という言葉に込めてもいいのではないかと考えています。結局、とりとめもなく、意味不明な文章ですいません。

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