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シンギュラリタリアンのスタンスの違いについて

 さて、そろそろ説明しておく必要があると思うので、コメントしておきますが、このブログの重要な用語であるシンギュラリタリアン(特異点論者、主義者)とは、必ずしも未来は超技術で薔薇色になると主張している人のことを指す言葉ではありません。

 代表的シンギュラリタリアンであるレイ・カーツワイルはシンギュラリタリアンを「シンギュラリティをを理解し、それが自らの人生においてどんな意味を持つのか、懸命に考え続けてきた人」(カーツワイル『ポストヒューマン誕生』p489)と定義しています。また、別の筋よると、最初にされたシンギュラリタリアンの定義は「特異点の概念を信じる人」なのだそうです(同、原注1章1)。シンギュラリティ研究所のエリーザー・ユドコウスキー(AI、ベイズ理論で知られる)によれば「特異点論者(シンギュラリタリアン)とは人間を超えた知能をテクノロジーを用いて創造することが望ましいと考え、その目的に向かって努力する人のことだ。特異点と呼ばれる未来の友であり、擁護者、代理人である。」(同注)。

 シンギュラリタリアンという言葉には、シンギュラリティ到来に積極的であるというニュアンスがあることは否定しかねるものですが、積極関与の立場であれ、必ずしも薔薇色の未来であるということを前提とするものではありません。テクノロジーを放任するより積極的に関与すべきであるから、シンギュラリティの進行に苦言を呈する友人であるということの可能性を排除していないし、ユドコウスキー氏自身そのように勤めているからです。

 また、前記の定義には、高度で広範な専門的知識などが求められてはいないので、要件は「懸命さ」だけ。おかげで浅学でセンスのない私もめでたくシンギュラリタリアンの末席に加わることが出来ます(か?)。わたしは、科学技術の動向については、カーツワイル氏の主張の受け売り程度の知識しかありません。それでも、自分なりに考えてみて、ある程度未来を楽天的に考えて、積極的に到来に関わるというスタンスの取り方の方が妥当なのではないかと考えています。また、そのこと自体が、シンギュラリタリアンに推進積極的傾向がある理由のひとつではないかとも思います。無論、消極的であってシンギュラリタリアンを自認すれば誤解されるので、そういう人はこのラベルを避けるため、自然と傾向が成立するというのもあると思いますけれど。

 個人的には、シンギュラリティは近いとする未来像に強い魅力と希望を感じるものの、基本的には獲らぬ狸の皮算用だけならまだしも、未来へのスタンスを誤ることで未来を壊滅的なものにすることは本末転倒だと思います。「パスカルの賭け」ではありませんが、オッズは幾分妥当で夢見すぎな未来に賭けて失敗した場合のリスクと、破滅的シンギュラリティが準備もなしに到来した場合のリスクを比較すれば、前者のほうがましなのではないかことは、理解してもらえると思います。私は、シンギュラリティは近いと思います。しかし、それは大空振りになるかもしれません。しかし、近いと考える材料は列挙できます。しかし、外れるかもしれない賭けに付き合って欲しいとまでは思いませんし、未来の可能性について、想像以上の変化の可能性あることを、失念して欲しくもありません。そこで、とりあえず2パターンのシンギュラリティ到来を仮定してみて、どういうスタンスならばリスクを最小に出来るかと考えてみたいと思います。到来が著しく遅い、ないし、ないという場合の賭けのリスクは、限定的だと思いますが、その場合はごめんなさいと言うほかありません。株で大損した弁償しろというのは勘弁してください。無茶です。

 アメリカのシンギュラリタリアンの間では、すでに来るか来ないかではなく、シンギュラリティの際の混乱の度合いが、穏やかで緩やかか、深刻で急激かで議論になっており、それぞれ「ソフトな離陸」「ハードな離陸」というタームで呼ばれています。これは去年のシンギュラリティ・サミットのテーマにもなりました。ソフト/ハードの予測には、到達までの時間と、社会の適応速度を測る必要がありますが、それは現在の私たちの未来への思索・見通し・スタイルの深まり、(収穫加速の法則でいうカオスの量の一部と見ることもできる)社会との摩擦係数と密接に連動しています。

 まずケースとして、シンギュラリティが「ソフトな離陸」として来訪するような状況、あるいはシンギュラリティまでの時間が、今世紀の後半以降に訪れるというような緩やかな場合でも、個人であれ公の機関であれ「爆発的技術発展はない」という見通しに立つことで、獲得可能な技術的利益を逃し、競争優位を失う確率が高まります。いわば、電気に喩えるなら、電力は低く、電気抵抗=摩擦は高い状態といったところでしょうか?したがって、電気は充分に行き渡りにくい状態になります。シンギュラリティ格差(あるいは一昔前の言葉でいうデジタルデバイド)の不幸なシナリオです。それは、企業対企業の技術格差である場合もあるでしょうし、国対国の場合もあるでしょう。しかし、もっとも恐るべき可能性は国家対犯罪者のケースや国家対民衆のケースでしょう。いずれにしても、そうした格差には警戒しすぎるということはないでしょう。もちろん「早すぎる投資」のリスクはあるでしょうが、それはいつの時代の投資にもあることです。むしろ、問題は日本のベンチャーが往々にしてあるように、投資が受けられないことです。

 このあたりは、法学者のレッシグが「本来受けることのできるようになる権利が、不当にも知られることすらなく国民から奪われることになる」というふうに表現しているような権利・自由、梅田氏、茂木氏の『フューチャリスト宣言』で「ゴードン・ベルの怒り」と呼んでるくだりや、社会学者の宮台氏が「理想主義のマキアベリスティックな効用」と呼ぶものもに関わってきます。来ないと断ずることによって破壊される幸福・生命は確実にあります。もし、100ドルPCが貧困の解消に資すると信じたOLPCの行動がなければ、ネットブック市場は出現せず、デジタルデバイドに閉じ込められていた人々は多いでしょう。貧しい人々にも適切な方法ならばビジネス融資は可能と信じたムハマド・ユヌス氏がイノヴェートしたグラミン銀行、マイクロ・ファイナンスがなければ飢えていたかもしれない人々、アーネスト・ダルコー氏のPCネットワークを使ったエイズ医療の取り組みがなければ既になくなっていたアフリカのHIV患者等などは直近の過去に実際にいるわけで、夢を見ないことによって訪れた不幸があったであろうことは、過去に事例としてはあるわけです。

 日本も最近のままの政治の流れでは、日本からのロボティクス爆発も、デスクトップ(インターフェイス)・エージェントのいる未来も後れを取り、日本人向けでないサービスを輸入するしかない、なんてことにもなりかねません(最近は、ロボティクス爆発はヨーロッパから始まるかなと思いつつあります)。この障害は「ソフトな離陸」に関してさえ、政治的、社会的に私たちが受け入れられない時に不可避ではないかと思います。それは、何もシンギュラリティだけでなく、グローバル市場化といっても、BRICs台頭といっても同じ危険を抱えているので、固有の危機ではないでしょうし、シンギュラリティがなくてもこのリスクはどの道、積極的な対処が必要でしょう。

 次に、「ハードな離陸」だった場合。格差は激烈で、AIの進化は人智を超えて人間を滅ぼそうとするみたいな『ターミネーター』シナリオや、『ブラスレイター』的(あるは『沙耶の唄』的)バイオ技術発展シナリオの場合です。これも電気で喩えると、電気抵抗は高く、電力も大きい、よって電圧が高くなる場合です。電線である社会は満遍なく強い電圧がかかり、発熱しダメージを受ける危険があります。その場合は明らかにシンギュラリティ・プロセスを警戒しないといけないわけですが、注意が必要なのは、ビル・ジョイ氏の言うように、世界全体で技術開発競争の一部を凍結して、国際的枠組みで一斉に技術開発の制限を行ったら競争優位の問題は発生しないし、それを目指すべきではないかという提案の難しさです。これは、比喩が適切なら電力を減らせということではなく、電気抵抗を上げよということになる気がします。

 この提案については、カーツワイル氏も著書で反論していますが、第一に温暖化問題でさえ国際社会の合意を取り付けるのが困難であるというのに、かくも想像困難かつ、国家経済の利益の中核であるイノベーション、それ自体にたいする制限に国際的合意をみるのは、まず見通しがたちません。現状、世界は競争状態にあり、資源のゼロサム・ゲームを続ける環境にある国々、集団、個人が自らの権益に照らして制限という判断に至ることは強引に達成する以外には不可能であるし、一国でも、一私企業でも、あるいは一私人でも(ポスト・ヒューマン化であれ、強いAIの誕生であれ)シンギュラリティに到達したら、そうした放棄は無意味なものであるばかりでなく、圧倒的不利になってしまいます。ならば、どの国でも技術優位を目指すことを放棄しようとは思わないでしょう。このことは資本主義と共産主義の関係と全く同じです。したがって、シンギュラリティそれ自体はともかく、シンギュラリティへの急き立ては根本的に回避不可能ではないでしょうか?それこそ、ベーシック・インカムを導入するのでもなければ。(もちろん、このことからは科学技術の成長が指数関数的ではなく直線グラフ的であることで、まだ遠い未来の話だという可能性は否定されはしませんが。)

 第二に、強引に国際条約を締結するにしても、それは技術的共産主義にほかなりませんし、技術先進国や技術警察への力の集中を招くことになります。社会や経済のダイナミクスを著しく制限することになるでしょうし、その結果大きな経済的、社会的、道義的停滞を招くことになるでしょう。何を研究すれば、技術的カタストロフィーに達するかは、研究しなければ分らない以上、本質的に、何を禁止すればよいかの策定は恣意的なものにならざるをえません。放棄すべき技術開発内容が適切に定義できないまま、イデオロギー的な、カンボジアの貨幣廃絶実験並みに危険な状態になる危険性がありますし、この方法ではエッジなテクノロジーのアングラ化は避けられません。

 それに、バグチェックの常識でもそうであるように、危険な到達プロセスに対するチェックの目が多いほうが、安全なシステムを構築することが出来ます。シンギュラリティの進展を自由で健全な市場・コミュニティに委ねる方針を採るならば、テクノロジーの進化の監視者数を最大化することが出来ます。それに監視者を政府機関などに独占させないことによって、チェックプロセス自体にテクノロジーを再投入することが出来ます。であるならば、将来には戦略的にシンギュラリティの良いところを探していくこと自体が、安全性を高めるのかもしれません。また、能動的に構えた方が、複数の強いAIやコントロール可能な、あるいは安全なAIとのすくみあい、多様な強化された人類の割拠といった状態のほうが、力の不均衡や支配という状態に対する保険となり、最悪の事態は回避しやすいでしょう。それは丁度、自分たちの力を超えた怪物・リヴァイアサンである国家を馴致する近代以降の私たち叡智の延長、手馴れたシステムの比喩で強いAIなどの統御を納得できるという利点もあります(攻殻機動隊2のラスト付近がこのことに意識的です)。民主主義的シンギュラリティ・プロセスだから一番コントロール性が高く安全だ、と言い換えることもできるでしょう。電気で言うなら電線を増やして、電力に対する電気抵抗を下げるアプローチだと言えるかもしれません。

 そして、あまりにシンギュラリティが避けがたく見えるからといって悲観的見通しに立つ場合には、ユナボマーのような反技術文明主義的テロリストを助長する恐れがあります。場合によっては宗教原理主義を含む「保守」潮流も大きく合流するかもしれません。こうしたことも、すでにカーツワイル氏などは折り込み済みで、著書に詳しく記しています。もちろん、逆にシンギュラリティ過激派なるものまで出現するかも知れませんが、それってスティーブ・ジョブスやGoogle、ビル・ゲイツとどう違うの?と聞きたくなります(それはそれで問題かもしれませんが)。それに爆弾を持って技術の開放を叫ぶ人々が出現するとしたら、技術抑圧的な機構への舵取りが為されるときだけでしょう。積極的シンギュラリタリアンとしてはそんな愚か者いるとは思えませんが、そんなことをしても、最終的に得をするのは誰か想像できるでしょう。また、技術の開発自体よりも、技術の(テロを含む)軍事利用の方が(軍隊の使用する)新技術による、暴走でも、そうでなくても人間の殺戮の可能性の方がはるかに危険です。

 以上のようにあまりにに悲観的な見方や、シンギュラリティのような爆発的技術発展などありえないという慎重な見通しも、それ自体で自己成就的な複数の危険を含むこともあり、必ずしも安全な見方とは言えないと思います。もちろん、ステージごとに関税等の技術規制を調整し、シンギュラリティのスケジュールを調整して、社会の急激な変化からくるアノミー、混乱、価値観の盛衰を緩和するという方策もありうるとは思います。しかし、情報化社会は、政治が社会を牽引するよりはやく、民衆が社会を速やかに牽引するものですから、規制の計画が立てられる側から、規制が必要なくなるということが次々に起こると思います。例えば秋葉原通り魔事件の直後、これに乗じて官庁が犯行予告検索技術に予算を割こうとした次の日には、集合知をつかった犯行予告収集サイト「予告IN」がつくられたように、です。

上記のように、シンギュラリティがゆっくり目でも、急激でもシンギュラリティは近いのではないかという可能性を考慮しておくことは、諸種のセキュリティの観点からして有益なことだと思います。むしろ、能動的に関わることのメリットはかなり大きいのではないでしょうか?

 シンギュラリティに限らず、科学技術のもつポテンシャルと現状の社会システムを運用する規範システムとの解離は、現状でも大きな問題です。社会の道徳規範が薄れていくという悲嘆も、感情的にはよく分ることですが、時代の道徳に対する要請の変化を頭の中から閉め出すことは、極めて危険です。同時に、現在の世界を動かす社会的、心理的、経済的、技術的種々のロジックを将来変化するから不用のものと見なして、不当に低く評価するのも、また危険なことです。現在を動かすロジックは、将来良くも悪くも、近くても遠くても未来と合流するものです。シンギュラリティを一種の超越性(ないし宗教性)と考えたとしても、それは現在の私たちの感覚と何らかの形で直面するものであるし、(しないなら単に存在しないのと変わりませんし)むしろ、安全で幸福なシンギュラリティの時を迎えるためには、現在の(狭義の)サイボーグ化も(狭義の)改造もしていない身体と精神の私たちが、どんな形の社会、どんな変化のプロセスならば幸福でありうるのか、満足できるのかという問いに真摯に向き合うことこそが、シンギュラリティに向かう電気抵抗を決める最大の要因になるということこそが、シンギュラリティ到来それ自体よりも重要なことではないかと思うのです。

 そういうわけですから、積極的幸福のためにシンギュラリタリアンであろうとする人も、防衛的理由からシンギュラリタリアンであらざるを得ない人も、シンギュラリタリアンには充分にありうると思います。その中間に様々なスタイルもあることでしょうし、シンギュラリタリアンといってもいろいろと理解してもらえると、誤解が少なくていいのではないでしょうか。

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利己主義のエコロジー・利他主義のエコロジー

今度こそ短くせねば。エコロジカルということと、低(二酸化)炭素的ということは必ずしも一致しません。前回も書きましたように、エコロジカルとは生態=環境学(システム)的(合理性)ということです。この合理性は、人類の持続可能性にとって欠くことのできない叡智です。この合理性は、物理的セキュリティを確保するためには確実に必要です。しかし、精神、心理的には必ずしもそうではありません。そこを意識しないと、環境を口実にし、道義を盾にする社会的抑圧と向き合うことが出来なくなります。

また、エコロジーにも道義のために、地球環境を守らなくてはならないという考え方と、生存環境を保持するために環境を保護しなければならないという考え方の二つがあります。これは、環境の保全という目的を共有するように見えながら、全く目的が違っています。

前者には、必ずしも目標必達的な観点がそなわっていません。出来るかぎりの努力をすることが目的だからです。しかし、最終目標としては人間のための環境を目指すのではなく、「生態系の調和」を目指すので環境に対する認識観察を大きく拡大するポテンシャルを持っています。

後者は、生態系を現在および過去の「理想的」状態に回復しようというモチベーションを持ちません。それゆえ、環境を保持するという観念の中に、特定種の保存や景観の維持、特定の産業・文化の保全という目的は含まれません。しかし、人類のセキュリティの保全という観点から、環境保全を志向するので、目標必達を重視し、努力による言い訳を認めないという確実性を持ちます。でも、複雑系の持つ緻密で予測不可能な諸機能に対する配慮が欠けがちなので、思わぬところで足をすくわれる可能性を残しています。

バイオエタノール産業の振興のプロセスにはこの両者のまずい組み合わせがあったのだと思います。バイオエタノールのまずさは、第一に普及時期にあります。なぜ今なんだと。もう少し早ければ、森林破壊による温暖化加速への効果は薄く、かつ、もっとはやく環境効果がマイナスでしかないことが、分っていたことでしょう。それに、原油高と連動して物価高をダイレクトに刺激する力は持ちえなかったはずです。もう少し遅ければ、電気自動車の普及でバイオ燃料の需要はここまで膨張しなかったでしょう。

そして、このインフラの拡大によってこれからバイオエタノールによる環境破壊の二つめの局面が引き起こされることでしょう。バイオエタノールは食料と競合するから問題なのだという理由によって、非食料由来のバイオエタノールの生産が始まるでしょう。そして、将来は食料需要とバッティングしなくなり、リサイクル原料から造られるようになり、真にクリーンなエネルギー源になるでしょう―――と説明されることでしょう。しかし、それは一体何時の話になるのですか?と聞きたいものです。

大手のバイオテクノロジー企業は、非食料由来バイオエタノールの普及開始時期(普及期ではない)を、2010年以後とみています。そして、コストパフォーマンスが食料由来エタノールを追い越す時期に関して目処を立てている企業は寡聞にして知りません。それに、コストパフォーマンスは関税がなされないかぎりは、工程の煩雑さから決して食料由来エタノールを上回ることはありません。とすれば、バイオエタノール市場は少なくともあと数年は確実に食料との競合が続き、その後十年近く先端バイオ企業による全体の中での少ない(プレミア価格のついた)非食料バイオ燃料生産寡占が続き、ほとんどのエタノールが食料由来のままという、状態が事実上放置されることでしょう。そして、この間農家の転作は一貫して継続するでしょう。

そして、バイオ原料が高く売れるということは、アマゾンなどの開墾に投入する資金が増えるということです。事実、バイオ燃料のための開墾が農作物向けの開墾速度を遥かに上回る速度で進展しています。

バイオエタノールがクリーンとされる理由は、消費にともなって排出される二酸化炭素が、エタノール農作物によって、吸収されるので差し引きゼロであるという仮説に基づいています。しかし、ジャングルのような鬱蒼たる湿地の中の密林と、すの空いた乾燥した農地とでは明らかに二酸化炭素の吸収力に開きがあります。バイオ燃料農地が密林に増えるほどに、地球の持つ二酸化炭素を土壌に吸収する力はダウンしていくのです。したがって、バイオエタノールには二酸化炭素を削減する効果は全くないどころか、増加する効果があるのです。

また、非食料エタノールの代表とされる木質バイオエタノールは、日本では間伐材を使ったり、建築廃材を使うのでエコです、で説明が終わりますが、価格からすればエタノール需要が確保されれば国産の間伐材や、建築廃材の価格が上がり、最終的に最も安い木材、貨幣価値と賃金の低い温帯地域の木材に依存することになりますから、遅かれ早かれ貨幣価値格差をなくさないかぎり環境破壊効果を招くことにしかなりません。しかも、その間一番消費されるのは安く生産できる食料由来の二酸化炭素吸収力削減効果を持ったエタノールなのです。

エタノール転作に飛びつくのは広い土地を有するという競争優位性を持つ国々です。安く大量の農作物を販売していた国々ほど、より大規模な転作を行っていくでしょう。しかし、原油高も、エタノール原料高もシリコンバレーが軒並み舵を切った太陽光発電の普及、自動車産業の脱ガソリン・入電池化の流れをうけて、一気にエタノール敬遠に傾いていくでしょう。そのトレンドは今後10年は続くでしょう。すると、エタノール依存度の高い国々は、悲惨な不況を迎えることになるでしょう。そうした人災を防ぐためにも、いまからエタノールインフラに投資になるようなことはしない、国際的にバイオエタノールの輸出入に関税および禁止などの制限を今すぐ行うか、早いうちに出来なければ手遅れですからケアを行うかする必要があります。サミットでの取りまとめのように、「非食料由来のバイオエタノールの生産技術開発を急ぐ」などという方針は環境破壊・国際社会破壊を激化させることにしかならないでしょう。

そしてもうひとつ、燃料電池の普及です。電気自動車関連の批評の間で、効率が悪い、無意味とすこぶる評判の悪い燃料電池ですが、環境という観点からすると物凄く大きな危険を孕んでいる気がします。

というのは、「水素社会の構築」とか言うスローガンの背後にはつまり、「大酸素排出社会の成立」という巨大リスクが控えているからです。

しばしば、燃料電池車は水しか排出しないと宣伝されますが、燃料電池車とは水素を酸素と結合させる時に出る電気を使う電気自動車です。それは、事前のプロセスとして電気で水素と酸素を分離して水素だけを貯蔵するというプロセスがあるわけです。そして、走行中に方々から酸素を奪って発電して水に戻す、だから差し引きゼロ、酸素は増えないだろうから考慮する必要がないと考えられているのでしょう。

しかし、それは大間違いです。排出された酸素は大気の飽和可能水準まで、その場で化学的に消費されます。そして、自然界の酸素吸収キャパシティを圧迫していきます。いったん水素インフラが大規模に構築されれば、水素に関する取引市場が世界規模で成立し、世界中での水素貯蔵が始まるでしょう。水素貯蔵量=使用した水量-酸素放出量です。水素のストックが増えるほど、比例して地球の大気・海水中に回される酸素量は増大します。

すると、こういう不均衡が起こります。燃料電池車の多い地域では土壌・河川・海洋のアルカリ化、大気の酸素量がわずかに下がるという変化。逆に水素を大量生産する地域では、土壌・河川・海洋の激しい酸性化、ならびに大気の酸素量の増大、それに伴う都市部火災、山火事の激増です。

事態はきっと(もし水素インフラが世界中に拡大するとして)、かなり水素依存が進展するまで見えないことでしょう。水素生産国なども、当初は若干の土壌酸性化の気配があるだけで、山火事なども増加したりはしないからです。ところが、地球全体の大気の酸素吸収能力をつかさどるメタンガスの吸収力の限界が近づくと、急に世界規模で山火事が頻発し、同時に地球気温が低下を始めます。

ラブロックによると、過去の氷河期などは大気中の酸素増大に伴う、強力な温暖化効果を持つメタンガスの減少、山火事の煙による太陽からの赤外線反射などが原因のひとつとして挙げられていますから、今度は温暖化ではなく寒冷化が新たな人類の危機となることでしょう。

短期的には、これはありがたいことかもしれません。しかし、長期的には極めて(人類的には)拙いことになるでしょう。したがって、この場合、セキュリティとしての環境を重視する人々が温暖化の解決策として速やかに水素社会構築に動き、道義中心的人々が結果を考えず水素社会化を推進した結果、後戻りできないような水素依存社会が出来上がってしまい地球を暖めるメタンガス発生量が数万年に渡り押さえ込まれるような、大規模な寒冷化が急速にもたらされる可能性もあるかもしれません。

また、環境問題=温暖化と限定してしまうと、海洋の急速かつ極めて危険な酸性化と富栄養化、海洋富栄養化による激しい大気汚染とそれによる、直接・間接地球寒冷化などの問題もまた、忘れ去られてしまうかもしれません。そして、現在のように地球の太陽・宇宙との熱的収支だけでなく電気的収支・質量的収支にもいずれは関心が必要になるのかもしれません。また、同様の人間と地球の関係変化は、わずかであっても太陽光発電によってももたらされるでしょう。なにせ、50年ばかりとはいえ、これまで人類が自然界に供給し続けてきた二酸化炭素は膨大ですから、それに合わせて生態系を適応させてきた生物種も多いはずです。

いずれにしても、エコロジカルであるためには、環境のメカニズムの洞察に真剣に取り組むこと、理解すること、そして環境の環境としての人類社会の経済合理的性質への洞察、自分と異なるエコロジカルな目的を持った人々がいるとはっきり理解して問題に取り組むことが必要なのです。そして、結局短くならない。

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倹約はエコじゃない

しばらく放置状態でしたが、我慢できなくなってきたので一言。

倹約はエコではありません。

最近電気の節約や、二酸化炭素の家庭からの排出を節減することが、不気味なくらいにTVなどで賞賛喧伝されていますが、それはエコではありません。はっきりいって。

エコロジカルというのは生態=環境学的ということです。つまり環境に対する正当な知識や思考に基づき、環境とシステム(特に人間と)の影響関係について最適な行動を目指すことが、エコ(ロジカルな合理性)ということです。エコという言葉からはロジカル(論理的)という最も重要な観点が抜け落ちています。

単に、家庭での電気消費のムダを減らしたり、ガソリン車のアイドリングを止めたりというのは、エコノミー、倹約です。それは、結局我慢して行動を無理に抑制している状態で、様々なことにたいして、人をいっぱいいっぱいにします。そして、その二酸化炭素等の削減効果については、悔しいことに日本全体としては、削減効果を上げていません。

それはなぜかと考えると、養老孟司氏も指摘するようにエネルギー源の問題だからです。いままでどおりの二酸化炭素を排出する火力発電、ガソリンエンジンで得られたエネルギーの範囲内で生活を続ける限り、環境の異常を止めるのに必要な削減効果を達成するのは、絶対に不可能です。エコロジカルであるためには、エネルギー源を切り替えるためには何をすべきかということを深く考え、コミットする必要があります。端的にいえば、エネルギー源を切り替えなければ、懸命の倹約もほとんど無駄になってしまうということです。倹約によって電力使用量が削減されても、国内の電力需要が緩和され節電の重要性が下がり、より大量の電力を必要とする人が電気をより容易に利用できるようになるだけだからです。

それが分っていても、私たちは倹約をやめないでしょう。それは、物価が上昇しているからです。私は、最近のエコをめぐる動きには、物価高から強いられた倹約・エコノミー生活を環境・エコロジー生活とすり替え容認させようという政治的な(特に世代間の)意図を感じずには居れません。最近の厳しい倹約生活は、これは、環境のためなんだと信じなければ到底やっていられないような厳しいものがあります。しかし、倹約と環境の安全を分けて対処しなければ、物価高の問題も環境の問題も虻蜂取らずになることでしょう。

エネルギー源の切り替えについて日本のエネルギーの安全保障という観点から見て、同様に二つのメリットがあります。ひとつは安定的エネルギー源の確保の観点からして、原油依存からの脱却という世界政治的重大なメリット、もうひとつは二十年ほどのタイムスパンで見て、エネルギー価格のかなり大きな安定的価格引下げ効果が見込めるというメリットです。

この二つは、実のところ密接な関連性を持ちます。世界各国の原油依存の解消が可能ならば、現状の需要の落ち込みの可能性のなさを担保にした先物市場を中心とした原油価格の高騰は、即時に解消可能です。なぜなら、原油が今後も値上がりするという確証なしに原油先物市場にいかなるファンドも投資を過剰投入し続けることは不可能だからです。したがって、昨今の原油・エタノールのエネルギー市場高騰の波及をうけた物価高騰は、エネルギー源切り替えの目処が立った時点から解消されていくことでしょう。問題は、目処のほうなわけです。

そのまえに、二つ。バイオエタノールと地球温暖化について。バイオエタノールの利用は推し進められるべきではありません。そのうち詳しく述べるかもしれませんが、非食料由来のバイオエタノールの利用にも問題があります。まず、コストパフォーマンスで、食料由来エタノールを上回る見通しが今のところないことから、非食料エタノールを利用するインフラで、今後も継続的に食料由来エタノールが消費されていくことでしょう。そのため、石油市場が潰れてもこの市場価格が世界的物価上昇を継続させていくことでしょう。なおかつ、非食料エタノールに切り替えが進んでも、ブラジルの焼畑で生産物が切り替わるだけで、世界最大の二酸化炭素吸収地のアマゾンの湿地が乾燥化することは避けられないでしょう。

次に地球温暖化。私は温暖化は事実だと考えています。しかし、もしそうでなかったとしても、(地球)環境と人類の間の収支関係は全世界的になんらかの形で調整するシステム設計が必要だと思います。それは、地球寒冷化が進行しているという立場の人でも同意できることだと思います。ただ、それが何らかの新たな政治的なシステム立ち上げ(排出権取引市場など)を要するかどうかはまだ分りません。

もどって、エネルギー源の切り替え目処の問題ですが、すでにドイツをはじめとしてヨーロッパではかなりの目処が立ちつつあるようです。ドイツではエネルギー源の切り替えの進行で、日本のCO²      排出量がここ数年で上昇しているのとは対照的に、一割以上も削減されており倹約と異なり実効性があるのです。しかしこの変革を達成するには、大きな社会的関心を要する課題が横たわっています。

最近、経産省の新エネルギー部会から「総合資源エネルギー調査会新エネルギー部会 中間とりまとめ(緊急提言)案」という文書が公示されました。今後のエネルギー政策に関する基本方針に関する一般国民への意見公募ですが、ほとんどの人が存在すら知りません。もし、これに対するパブリックコメントがなければ、お役所では「反対意見もなく大方の人が賛成している」という風に取りまとめてお墨付きを得る手はずになっています。

この文書の内容がはらむ問題に関しては飯田哲也氏のコラムを読んでもらったほうが有益かつ簡便ですが、ここでの話との関連で取り上げると、つまり「太陽電池などに補助金をだすので、電力料金引き上げます、今後もRPS法を宜しく。」という内容になっていることがポイントです。

RPS法についてはウィキペディアを参照のこと。非常によく書けていると思います(主要執筆者に感謝)。ウィキにもありますが、これとは異なる制度設計にドイツなどに始まるFIT制があります。この二つの政策は風力発電、太陽光発電、小水力発電などの導入の促進を目的として勘案されたものですが、両者には著しい違いが見られます。日本よりも先にこれらの制度はヨーロッパで施行され、結果として日本で施行されているRPS法は効果がほとんど見られず、FIT制が施行された国々では指数関数的な効果が現われることが確認されています。この二つの根本的な違いは、何を市場プロセスに委ね、何を法的にコントロールするかという点にあります。

RPS法は電力会社に対し電気の買取量を定めるのに対し、FIT制は自然エネルギーの価格を一定にする代わりに、市場に供給された全自然エネルギーを電力会社に購入させるという制度です。RPS法は、一見して直接自然エネルギーの導入を拡大でき、自然エネルギー発電に市場プロセスを導入できるように見えます。しかし、その実、旧来の電力会社は義務付けられた買い取り枠を守っているだけで、新規自然エネルギー事業者の数や発電量がいくら増えても、買い取り義務は生じず、新規事業者は買い取ってもらえない電気を買い叩かれ、その結果新規参入者は減り、旧来の火力等の電気事業者は市場寡占を維持できます。これにあわせて買い取り枠を拡大してもいたちごっこで、新エネルギーの発電量が増えるたびに押さえ込まれることになります。日本でも、買い取り枠が小さすぎ、いくつもの自然エネルギー導入計画が頓挫しています。しかも、緊急提言には補助金がどのくらいか全く明示されていません。自然エネルギーを導入しようにも目処が立たず、ハイリスク過ぎるという構造が作られているわけです。

対してFIT制は自然エネルギーの買取額が固定されていて、自然エネルギーの新規事業者や発電機器メーカーに競争原理が働かないように見えますが、価格が一定ならば発電のコストパフォーマンスへのインセンティブが働き、結局は競争原理が働きます。長期的にも一定額での買い取りが期待できるので、初期投資の目処が立ち一般市民を含めた新規参入のリスクは大きく抑えられます。ドイツでは、この固定価格買取を遂行するために電気料金への買取コストの転嫁をある程度認めることで、現在の電気料金は割高になっていますが、将来的に原油高が継続しても電気価格は連動しないで済むでしょうし、自然と規模の経済が働くようになれば、従来以上に安い電気価格に推移することも自然エネルギーの性質上充分にありうることでしょう。しかしながら今回の緊急提言の中身は「自然エネルギーの普及妨害のために電気料金を上乗せさせてください」という内容であり言語道断です。

しかし、こうした制度設計を通した実効性のあるエコ行動は、政治プロセスを通さなくてはならないためか、一般庶民がすぐにできるエコではないと見なされてか敬遠されているようです。しかし、パブリックコメントなり、ブログなりで怒りの声を上げなければ、旧来の電力会社に操られた経産省の手で必死の倹約の意味すらも消滅させられてしまうことでしょう。制度に対して怒りの声を上げないかぎり、ただ倹約しただけでは自分の髪を引き上げて空を飛ぼうとしているようなもので、崖を登攀するにはもう一段高いところに手がかり足がかりを探り出す必要があるのです。

原油高へのけん制効果を考えるならば、原油価格が下がる分だけ、値上げを既に実施した大中小の企業収益の改善が見込めます。ドイツにおけるQセルの急成長のような市場創出効果、雇用拡大効果なども見込めます。しかし、国民の見ていないところで官庁の役人ががわざわざそれを妨げているのですから、これは甚だ腹立たしいことです。腹立たしいことが陰で行われていることを知ること、腹立たしいことをムカつくと表明すること。それが、エコロジーに向かい合うための本当の第一歩です。

シンギュラリタリアンの端くれとしてこの問題を考えると、誰もが自分に必要なエネルギーを自分で賄えるようになることは、非常に大きな意味があります。この移行が行われれば、次は大きなタイムスパンでのコモディティ化の道が開かれているからです。しかし、日本で現状が続くならば、コモディティ化の前に新エネルギー事業者は干上がり、その可能性の芽さえ潰され、ドイツやインドでタダのような電気料金に移行しているころに、日本では原油高でいまの何倍の電気料金に追われているということになりかねません。それは、きっと遠い時代のことではないでしょう。現に、この緊急提言の直後から新エネルギー機器関連の買い控えが起こっているようです(東京新聞)。コモディティ化の条件は巨大市場で規模の経済が機能することです。そこまでの成長が見込めない産業の商品は、コモディティ化のプロセスをたどることはありません。緊急提言をとりまとめた新エネルギー部会はそのことを全く理解していないようです。

まずはFIT制で、各家庭に太陽電池や、小型風車、スターリングエンジン、あるいは天然ガス発電機を設置できるようにし、イオンの計画のように日本中電気自動車スタンドがある状態になれば、物流コストは緩和され、原油高の苦しみから解放される人は大勢いるはずです。それどころか、自然エネルギー投資の採算見通しが立つようになれば、村おこしのために道の駅や公共施設に無料の電気スタンドを設置する自治体や企業が出てきても全く不思議ではありません。電力会社を電線会社と発電企業に分断して、寡占状態から退けて、まっとうな市場競争を生み出すこと。そこから、WEBにおいて起こったような2.0状態もありうるかも知れません。例えば、屋根を貸してくれればタダで太陽電池を貸して上げましょう、そのかわり余剰電力は安く売ってくださいという企業が出現するかも知れません。それは、インターネットの無料サービスにビジネスモデルが似ています(現状で最も近いものでESCO事業があります)。そして、エネルギー2.0というかエネルギー民主化というかが実現されればこのステージはエネルギーのシンギュラリティのはじまりとなることでしょう。このステージの到来によって、ロボティクス爆発の条件が整うのです。

しかし、政治をあきらめて、目の前の倹約に必死になり、官庁のやりたい放題を放任しているかぎり、もはやそんな未来の可能性はありません。エコに必要なのは、倹約よりも制度設計であり、エネルギー生産の主導権を電力会社から奪い返すことなのです。

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